明けない夜になりたい
毎週土曜日の夜、やってくる男の名は根岸といった。父が勤める会社の代表取締役だと言っていた。
父と同じ年頃のその男は小太りな体型をしていて、顔はいつでも脂ぎっていた。私や姉を見る目は欲望を孕み、あの粘着質な声に名前を呼ばれるだけで背筋に冷たいものが走る。
根岸の『玩具』に選ばれたのは私だった。五歳年上の姉の方が綺麗な顔立ちをしていたのに、まだ十歳だった私で遊びたいと根岸は決めたのだ。
どうして私なのか。尋ねた私に根岸は締まりのない笑みを浮かべ、口を開いた。
「それはね、あやめちゃんが××だからだよ」
当時の私には××がどういう意味なのかを理解できなかった。だが、姉は××ではないらしい。
根岸は口汚く姉を罵った。
「姫花の方は駄目なんだよ。綺麗な顔をしてるくせに何人もの男と遊んでいる腐ったビッチだ。ああ、醜い醜い……」
根岸は頭をばりばりと掻き毟ったあと、ベッドの上に散らばる無数の衣服の中から一つ選び、私へと笑いかけた。
「あやめちゃん、今日はこれにしようか……ふふ……ひ、ひ……」
袖や裾に白いレースのついたワンピース。それを受け取り、下着しか身に付けていない状態の私は頷いた。
根岸は近くにあった椅子に腰かけ、ワンピースを着替え始める私をじっと観察した。私は根岸から注がれる視線を受け止めながらワンピースに身を通す。
「綺麗だ。あやめちゃん、とっても綺麗だよ……こっちにおいで……」
言われた通りに近付くと根岸から椅子から降りて、私の前にしゃがんだ。芋虫のように丸々とした手が私の両足を掴む。
私は悲鳴を上げそうになるのを何とか堪えた。そうしている間にも根岸はワンピースの中に自分の頭を潜り込ませた。
太ももを湿った熱いものが何度もなぞる。私は叫びたくなる衝動を何とか耐える。
従順な根岸の人形を演じなければならなかった。
「あやめちゃん……はあっ……綺麗で美味しい脚だねぇ……へはぁっ。男を知らない純潔の味だ」
根岸はこれ以上は何もしてこなかった。
何故なら根岸は××である私に執着していたからだ。私に性的な目を向けていても、行為には及ばなかった。それは私にとっては唯一の救いではあった。
根岸は私を着せ替え人形のように扱い、様々な衣服を着させて満足する狂人だった。テレビのニュースにも出てくるような男だ。こんなことが世間に知られれば、彼の信用は瞬く間に失墜し、その影響は会社そのものにまで及ぶだろう。
羞恥と嫌悪で泣き叫ぶ私に父は「我慢をしろ」と怒鳴る。私という玩具を差し出すことで、自分の地位を確固たるものとしたのだ。
娘を上司に売った。その事実を私は必死に受け止めようとした。そうすることでしか、私はこの家で生きていく方法はなかった。
「あやめちゃん……ずっと汚れないままでいるんだよ……大人になったらおじさんがあやめちゃんを女にしてあげるから……」
気持ち悪い気持ち悪い。私は既に汚れている。舐められた太ももが冷たい。その部分の皮膚を剥がしてしまいたい。
撫でられて、舐められて私はようやく解放された。
自室に戻ると、私は濡れた髪をそのままにベッドの中へ潜り込んだ。吐き気と震えが止まらない。
シャワーはさっき浴びてきた。肌が滲みるのに構わず何度も洗った、のに。
根岸の手と舌の感触がいつまでも私の体から離れようとしない。奥歯がカチカチと鳴るのを止められずにいる。
誰も頼れる者はいなかった。母は姉ばかりを溺愛して自分に似なかった私を疎ましく思っていたから。姉もそれを知っているから、私を妹として認めようとしなかった。
一つの下の弟も怖くて近寄れない。以前、部屋に閉じ込められて服を全て脱がされそうになったのだ。あの時の弟の目は、根岸のものと似ていた。
広い広い屋敷の中、いつだって私の本当の居場所は自分の部屋しかなかった。
暗闇の室内、私はふらふらと窓へと向かった。
薄い硝子の向こうにはどこまでも続く夜空が広がっている。星も月もいない日だった。あの中に飛び込んでみたい。私は心からそう望んだ。
死んで私がただの脱け殻になったら、根岸はそれを使ってまた遊び始めるかもしれない。そうなるくらいなら命も体も闇と同化した方がいいに決まっている。
「誰かたすけて……」
救いを求めて窓を開け放つ。外から流れ込む冷たい風が私の髪を揺らす。
すぐ目の前に望むものがあるのに、いくら手を伸ばしても届かない。だけど、それを手に入ると本気で思えるほど私は子供でもなかった。
手だけではなく全身を窓の外に出していく。
ここは三階だ。落ちれば私の死体はきっと壊れてくれる。そうなれば根岸は私の死体で遊んだりはしないのではないだろうか。
不意にそんな考えが浮かんで名案だと思った。その瞬間、私の体は音もなく窓から落下した。
だが、やってくるはずの痛みと衝撃はいつまでも訪れない。
蔦のようなものが全身に絡み付き、私が地面に叩き付けられるのを防いでいた。そして、『それ』によってゆっくりと降ろされる。
庭にいた『それ』は巨大な球体に見えた。シャボン玉のような薄い膜の中心で、丸い何かが脈を打っていた。丸い何かは赤黒い肉の塊のようだった。そこからは無数の赤い管が伸びて、膜を突き抜けて外に飛び出ていた。あの管が私を救ったのだろう。
『それ』の中心には二つの石が埋め込まれていた。虹色の輝きは『それ』自身を照らし、その異形を私に見せ付けた。
私は石の輝きに魅了されていた。母や姉が持つ宝石なんかよりずっと美しいと感じた。私の眼前に化物がいることなど忘れて、二つの光を見入っていた。
『シニタイノ?』
肉が蠢くのと連動するように声がした。男か女かさえ判別できない、ざらざらとした声色は私は生への絶望を思い出させた。
殺してくれるだろうか。こんなに美しいものを持つ化物に殺されるのがとても素晴らしいことだと、何故か私はそう思えた。
「死なせて……ください」
『ダッタラ、ゼンブチョウダイ』
一本の管が私の首に巻き付く。それだけだ。力を込めることはしない。
そっと寄り添うように首に巻かれた管はほんのりと温かい。
『シニタイナラ、カラダモ、ココロモ、タマシイモ、モラウ』
「うん、あげる」
管を慈しむように撫でる。私の思いが少しでも『それ』に伝わりますように、と何度も何度も祈って。
私の記憶はそこで途切れていた。気が付くと自室のベッドの上に眠っていたのだ。
閉め切ったカーテンの隙間からは目映い光が漏れている。朝が訪れていた。
根岸が家にきた日の夜はいつも眠れないのに。代わりに不思議な夢を見た。夜の静寂の中で、私は美しい石を持ったおぞましい化物と仄暗い契約をしていた。
ベッドから降りていると、ドアが開いて母が入ってきた。
「あやめ、まだ寝ていたの? 早く用意しなさいよ、このグズ」
「……用意?」
「あんたの世話役をなりたいっていう物好きな男の話昨日したじゃない。そんなことも忘れたの?」
忘れたも何も、そもそも昨日私と母は会っていない。母は姉を連れ出してどこかへ出かけていたのだ。
母は根岸の性癖に激しい嫌悪感を持っていた。姉を根岸から少しでも遠ざけたかったのである。
世話役とはどんな男なのだろう。私の最初に思い浮かんだのは根岸だった。全身に鳥肌が立ち、足が震える。母によると私は世話役の男と共に暮らすことになるらしい。
恐れを抱きながら支度を済ませ、玄関へと向かう。その途中で姉と顔を合わせると、鬼のような顔で睨み付けられた。
「何であんたみたいな不細工が……」
私には姉の怒りの原因が分からなかった。ただ、この屋敷から離れる私への別れの言葉はない。せめて上辺だけの言葉だけでも言って欲しかったのに。
玄関には一人の人物が立っていた。金色の髪と白い肌、紫色の瞳を持つ綺麗な青年だった。
男に対して『綺麗』という言葉は相応しくないだろう。
だが、その時の私は確かに青年のことを綺麗だと思ったのだ。
いかにも姉が好みそうな顔立ちをしている。何故、姉が私に向けていた怒りの正体は嫉妬だった。
「あやめ、いい? ちゃんとこの人の言うことを聞くのよ」
母の言葉を聞きながら私は青年を見上げた。変わらない表情。まるで人形のようだ。
青年は私に手を差し出した。
「よろしくね」
「は……い……」
握り返すと青年の手はひんやりとしていた。ずっと握っているとじわじわと温かくなってくる。
「あやめ!」
靴を履いて家から出ようとする私を誰かが呼んだ。振り返ると弟が暴れ、母に取り押さえられているところだった。
「涼」
「ふざけんなよ、あやめ! そんな気持ちわりぃ男のところに行くんじゃねぇぞ!」
「いいじゃない、涼。あやめなんていなくてもママや姫花ちゃんがいるわ」
「駄目だ! あやめは俺のだ、俺のもんだ!」
弟の肉食獣めいた眼差しから逃れたくて、私は俯いて足元を見た。私の心を容易く抉る母の言葉よりも、今はあの目が恐ろしかった。
口汚い罵倒に青年は表情を歪めるわけでもなく、弟を一瞥してから私に「行こう」と声をかけた。それが余計に癪に障ったのだろう。
「お前なんて殺してやる! 絶対に殺してやるからなぁ!」
私に異様な執着を注ぐ弟なら本当にやりかねない。私は恐怖で青年の手を強く握り締めた。
どれだけ歩いただろう。青年が空を仰ぎ見たので、私も真似してみた。
炎色に空が染まった夕暮れ時。もう少しで葡萄色に変色して月が出て、星も姿を現すだろう。 これから同居することになる見知らぬ青年と初めて見る空は、激しく苛烈な色彩で描かれていた。
太陽の光の眩しさに私は目を逸らしたが、青年はずっと見上げていた。
「太陽は巨大な炎の塊」
青年が突然そんなことを言った。
「地球が無事でいられるのは、二つの星が適度な距離を保っているから。その微妙で危うい均衡が少しでも崩れたら地球はあっという間に滅びる」
「……そうなの?」
「うん。この星の人たちは気付かないだけで地球は少しずつ、少しずつ太陽に近付いてる。いつか、近付き過ぎて燃える」
「そうしたら、人がたくさん死ぬんだね」
太陽は地球なんかよりずっと大きい。象と蟻ぐらい差がある。
もし、人間がそのことに気付いて必死に抵抗しても敵わない。あっという間にみんな焼き尽くされて死んでしまうのだろう。
善良な人間も醜悪な人間も全て、全て灰になって終わり。
「……そうなったらいいのに」
「そうなの?」
「そうなったら私の死体、誰にも汚されないもん」
「そうしてあげようか」
子供の薄暗い願望に青年が気を悪くする素振りは見せなかった。ただ、穏やかに囁くだけだった。
できないのに、どうしてことを言うのだろう。私は「しなくていいよ」と返した。
気が付けばあんなに鮮やかで眩しかった頭上が、今は穏やかな夜の景色に変わろうとしている。
黒い川の中で揺らめく無数の星屑。
そして、仄かに光を放つ白い月。
「月はいいよ。海はあまりないけど、兎もたくさんいてみんな穏やかに暮らしている」
「うさぎ、たくさんいるんだ」
青年の絵空事だと分かっていても話に乗った。行きたいな、と私は素直に思った。物言わぬ兎に囲まれて一人で生きられたら、どんなにいいだろう。
「僕はその兎たちから面白いものをもらった。きっと使う予定なんてないだろうけど」
「おもちゃ?」
「ううん。何とか装置って兎は言ってた」
この日から私と青年、二人だけの生活が始まった。
青年は自らを『つばき』と名乗った。私と同じ、三文字で花の名前。さん付けはいらないとのことだったので私は青年をつばきと呼んだ。
つばきは何でも知っていた。私が小学校から持ち帰ってきた宿題で分からないことがあれば何でも教えてくれたし、ニュースで私が気になったことを言えば、その疑問を紐解いてくれた。
つばきは相変わらず人形のように綺麗な顔のままだったが、私に優しく接してくれた。風邪を引いた時は一晩中、私についていてくれる優しさがあった。
子供とは単純な生き物だった。壊れ物を扱うように大事にされれば、その人間に懐くようになってしまう。私にとって、つばきはすぐに唯一信頼できる大人になっていた。
私とつばきが住んでいたのは、郊外にあるアパートの一室だった。平日、つばきは昼間はいないらしい。私が学校から帰ってくる夕方には、台所に立って夕食を作っていたので午前中だけの仕事に就いていると思っていた。
私は夕食の時にその日学校であったことをたくさん話した。だが、つばきはそれを聞くだけで、自分のことは一切語ろうとはしなかった。
私はつばきについて何も知らなかった。母からも彼についての情報は聞かされていなかった。
「つばきはどうして私の世話係になりたいって思ったの?」
つばきは根岸や弟のような目で私を見ようとはしない。私の家から給与をもらってはいるようだが、こんな小さなアパートで私の世話をするなら住み込みで屋敷で働いた方がいい。姉も喜んでそれを了承するだろう。
土曜日の夜のことだった。寝るために照明の消された部屋の中で、私はそう尋ねた。
窓際に立ち、遠くにある夜景を眺めていたつばきがこちらを振り向いた。少しだけ開いた窓の隙間から侵入した涼しげな風が、つばきの金色の髪とカーテンを揺らす。
月明かりに照らされた彼はどこか中性めいた美しさがあった。ふっくらとした桃色の唇が言葉を紡ぐ。
「君が言ったから、僕はあやめをもらった」
「私が、何を?」
「体も、心も、魂も。全てをもらうと言った僕に君は『あげる』と言った」
くちゅり、と水音と共につばきの全身が溶け出す。髪も骨もどろどろの赤色の液体になった。それは床に垂れることなく、宙でバスケットボールほどの大きさとなる。
赤色の珠を守るかのように薄い膜が覆う。
そして、中心では虹色の光を放つ二つの石。美しい異形と化したつばきの姿に、いつしかの夜の記憶が掘り返される。
「オモイダシタ?」
球状の肉から伸ばされる管が私の髪と頬を撫でる。死のうとしていた私を守った、化物の手はあの時と同じで温かい。
「つばきは人間じゃないの?」
「ウチュウジン」
ウチュウジン。宇宙人。
他の星からやってきた人。私はそう結論づけた。
「……つばきはどうして地球に来たの。地球征服のため?」
「チガウ」
管が引いて肉が大きく蠢く。人の輪郭となり、赤い表面を白い皮膚が貼り付けられる。髪が生えて顔には目や鼻が作られた。
異形は再びつばきとなった。だけど、私の知る青年のつばきではなく、そこにいたのは私と同じ年頃の少年の肉体をしたつばきだった。
「こうやって、色んな人間に変わることだってできる。すごいでしょう?」
青年の時は全然笑わなかったつばきは笑んでいた。幼くなったつばきの姿は少年というよりも少女のようだった。そう言ってもいいぐらい美しかった。
「見た目が幼くなると精神の方も子供に近くなる。不思議だね、人間は」
つばきは掌で私の頬を包み込んだ。ひんやりとした体温。薄い皮膚の下に彼の本当の体温は隠れている。
「あら、つばき君! その可愛い子は妹さん?」
「親戚です。しばらく預かる事になりました」
「つばき君、これうちの実家から送られてきた野菜! その子に美味しい料理作ってやんな!」
「ありがとうございます」
「つばきさーん、今日はお肉屋さんで牛肉特売みたいよ。早く行かないと売り切れちゃう」
「後で行ってみます」
「つばき」
「何、あやめ」
「つばき、人気者なんだね」
歩いているだけで向こうから話し掛けられる。
人参やら白菜やら葱やらが詰め込まれた袋を手に提げるつばきは、この街ではよく知られていた。
狭くて古いアパートに住む年齢不詳の美青年。
星の王子様と呼ばれている、そうで。
星という点では間違ってないかもしれないと私は思った。どこかの星なのは知らない。
だが、王子様は人間ではないことも自分しか知らない。この平和な町に異物が紛れてるなんて想像もせず、皆生活している。
頬に冷たいものが当たる。
白に近い灰色の空から雪が降り始めていた。
つばきが舞い降りるそれをじぃ、と見詰めながら口を開けた。
食べる気だ。私は止めることにした。
「つばき雪食べたらお腹壊すよ」
「地球の物質で僕の体は壊れない。この星の氷とか雪がどんな味か気になるだけ」
「でも、駄目だよ。あんまり美味しくないと思う。ていうか味、しないもん」
星の王子様が雪を食べている様を見たら近所の人も引くだろう。
いや、あれほど溺愛しているのだ。その姿すら素敵だと言いかねないが。
私の説得でつばきは雪を食べることを断念したのか、口を閉ざす。少しほっとした。
ただ、未練はあるようで首を上下にゆっくり動かして、地面へ落下して水に変わる様子を何度も繰り返し見ている。
「つばきの住んでた星には雪降ってなかったの?」
「降ってなかった。だから、どんな味がするのか気になる。映像では見た事あったけど、この目で見るのは初めてだから」
つばきの吐き出した息が一瞬だけ白くなって、消えて空気と溶け合う。
最初は疎らだった雪の量が次第に増えていく。
体はコートとマフラー、それに手袋で守られている。だが、頭はどうにもならない。
つばきの薄い黄色の髪に雪の欠片がいくつもついている。
それを見て、私は自分の髪に触ってみた。冷たさに顔をしかめる。
冬は嫌いだ。
「この星には僕が知らないことたくさんあって、それが知りたくて半年前に来た。綺麗なものも汚いものもたくさんあって、美味しいものも不味いものもたくさんある。
心が綺麗な人間も汚い人間もたくさんいた、かな」
「そんな理由で来たの?」
「僕の星の者は皆、欲がないというか、ただ時間が流れるままに生きてる」
ゆっくり生きられるならそれでいい。余計な事を考えないで、死ぬまで穏やかに緩やかに時を刻む。そうするだけの技術がちゃんと存在する。
大きな喜びも絶望もなく幸せに生きられる。その代わり、感情が希薄になってしまった。
特に悲しみや怒りや恐怖や憎しみなどの『負』の感情は生きるために切り捨てるものだとした。
星の住人は更なる幸福のために、『進化』を遂げた。嫌な感情を全て奪い取る力を得た。『心』を置き去りにして幸せを手に入れた星の住人。
そう語る青年に、私は羨望を含んだ笑みを浮かべた。
「いいなぁ。何も考えないで幸せになれるんでしょ?」
「うん」
「私、嫌な気持ちにたくさんなったから、そういう風になりたい」
「羨ましい?」
「うん」
純粋にそう思った。
そこに生まれていれば、気持ち悪いも怖い思いも悲しい思いもしたくて済んだかもしれない。
それは私にとっては幸せ以外の何でもない。
なのに、つばきは首を横に振った。
「あやめはそういう風にならなくていい」
「だって私、つばきと同じ星に生まれたかった」
「僕の星の人達、幸せだけど幸せじゃないから。あやめは地球に生まれてきて良かったと思う」
「何それ」
あやめが少し拗ねたような口調で聞けば、つばきは「何だろ」と答えになっていない答えを独り言のように言った。
「僕が地球に行きたいと思ったきっかけは、この星の人の映像を見たから。見たことがない食べ物がたくさんあって、皆笑ってた。僕たちより苦労してるって聞いてたのに、とても幸せそうに見えたんだ」
「……みんな、幸せな人ばっかりじゃないもん」
「あやめみたいに?」
私は何と答えていいか答えに迷っていた。時間切れとなり、つばきが口を開く。
「僕は実際に人間として生活をして知ろうと思った。どうしてこの星の人間が幸せなのか。そして、誰かと暮らしてみることにした」
それが私だったのだろう。私はつばきにとっては実験材料に過ぎなかった。以前から薄々気付いていたが、ようやく確信となった。
悲しくはなかった。あの夜、私は死ぬ代わりにつばきに私の全てを明け渡すと誓ったのだ。結果、どんな扱いをされようが、私の自己責任ということとなる。
「あやめはよく笑うようになった」
つばきが私の前にしゃがみこみ、私の髪についた雪をそっと払う。
「闇の中で今にも死にそうな顔をした人間の子供を見付けた時、僕はもう一つの試みを思い付いた。彼女を笑顔にさせる方法を探してみようと。単なる気紛れだった。だけど、君の笑顔を見た時、僕は大きな価値を見出だした」
「価値?」
「あやめの笑う顔を見ていると心が温まるんだ。多分、これが幸せという感情なんだと思う」
目の奥が熱くなる。視界が滲む。悲しくも怖くもないのに涙が溢れ出すのを感じる。
「あ、あのね、つばき」
「何?」
「私も、私も、つばきといると胸の中がぽかぽかするの」
「そうなんだ」
「だからね、私、今とっても幸せなんだと、思うよ」
「うん……」
嬉しいな、とつばきがぽつりと呟く。私の涙が頬を伝い、地面に零れていく。
誰かに想われることがこんなに嬉しいものだと私は今まで知らなかった。同じ気持ちをつばきも持っているのだろうか。そうだったらいいのに。
たくさん泣いたあと、私はつばきに自販機で缶のココアを買ってもらった。ほろ苦くて、けれど甘い。私がつばきへ向ける感情とよく似ていた。
「あのどれかに僕の故郷があるんだ」
つばきは窓硝子の先にある夜空を眺めていた。私たちは共に色んな空を見てきた。晴天の空、曇り空、夕映えの空、夜空、朝焼けの空。
つばきが一番好きだったのは星がまんべんなく散りばめられた夜空だった。彼の住む星には青空は存在せず、ずっと星空ばかりが続いていたらしい。
だから懐かしくなるらしい。
「帰りたい?」
訊いた私につばきは首を横に振る。
「あやめがいるから帰らない」
その一言がどんなに私を歓喜させるかをきっとつばきは気付きもしない。それでもいい。
私とつばきはずっと共にはいられないだろう。いつか別れる時がある。そうなったら私はどうすればいいのか、時々考えるようになった。
「ずっと一緒にいられたらいいね」
「いるよ。あやめが死ぬまでこの星にいる」
「ありがとう」
夜の空になりたいと思った。つばきが一番夜の空が好きだと言ったから。そうすれば、つばきがどこにいても私はずっとつばきを見守っていられる。
ずっと。
ずっと。
「やっと見付けたよ、あやめちゃん」
ずっと。
「あれ、どうしたの? せっかくおじさんが迎えにきたのにボーっとして」
学校帰り、私の前に現れたのは根岸だった。最後に見た時より太っていた。
気色の悪い笑みを浮かべる根岸の後ろには父もいた。反対方向に逃げようとすると、恐らくは二人の部下の男が待ち伏せをしていて、腕を掴まれた。
必死に振りほどこうとする私に父が呆れた様子で語る。
「母さんがお前を勝手に世話係とかいう男に押し付けるとは思わなかったな。さあ、帰るぞ」
「い、いや、帰らない」
私の今の帰る場所はあの狭いアパートだ。かつていた屋敷ではない。
首を振る私の頬を撫でたのは根岸だった生臭い体臭に息が詰まる。
「だったらおじさんの家で一緒に暮らそう。大丈夫だよ。毎日二人で美味しいご飯を食べて、二人でお風呂に入って、二人で柔らかいベッドで眠ろう」
嫌だ。叫ぶ私の口を部下の男が塞ぐ。そのまま停まっていた黒い車に乗せられる。
後部座席に押し込められた私を隣に座った根岸がぬいぐるみのように抱きかかえる。
気持ち悪い。怖い。誰か、誰か。恐怖のあまり声も出せず私は必死に心の中で叫び続けた。
「あやめちゃん、これでずっとおじさんと一緒だよ」
運転手の男が前を見て悲鳴を上げたのは、根岸がそう言った時だった。
猛スピードで走る車の前方に子供が立っていた。私と同じくらいの背丈の、金色の髪をした綺麗な少年。私がその少年の名を叫ぶより先に、速度を落とせなかった車が少年を撥ね飛ばした。
「つ、つば、き」
つばきの小さな体が宙に投げ出されたあと、ぐしゃっと嫌な音を立ててコンクリートの地面に叩き付けられた。
綺麗な紫色の瞳を開いたまま動かないつばきの頭を中心に、赤い水溜まりができあがっていく。
「つばき! つばきっ!!」
「馬鹿者! 何てことをしてくれたんだ、お前は!」
「しかし、あの子供はまるで瞬間移動したかのように急に前に現れて……!」
車内が騒がしくなる。私は呆然とする根岸の腕から逃れて車から飛び出した。
「つばき!」
つばきに駆け寄って体を揺さぶる。虚ろな目は空を見上げたままで、私の方を向こうとはしない。
追いかけてきた根岸が私をつばきから引き剥がそうとする。怒りと悲しみがせめぎ合い、頭が沸騰しそうになる。
私は根岸の芋虫のような手を力強く引っ掻いた。
直後、根岸は私に対して初めて顔を歪めた。平素の状態であれば恐ろしい光景だったろう。けれど、今の私にとっては憎しみを助長するものでしかなかった。
「こ、このクソガキ……帰ったら狂うまで調教してやる……!」
根岸が私の髪を掴む。
ぎょろり、と紫色の瞳が根岸を見た。私だけではなく、根岸もそれを見てしまい慌てて私たちから離れようとする。
「ひっ、こいつ、生きてっ」
つばきの体がどろどろに溶け出し、赤黒いそれが私を守るかのように巻き付く。
つばきは私の目と耳を塞いだ。何も聞こえない、何も見えない。一体、何が行われているのか、私には想像できなかった。
だが、唯一自由の身だった嗅覚は確かに嗅ぎ取っていた。鉄錆の臭いを。
どのくらい時間が経っただろう。視界が明るくなる。
「あやめ」
そこは私たちのいえだった。月明かりのか細い光に照らされた薄暗い部屋の中、少年の姿をしたつばきがいた。少女のような艶やかな笑みを浮かべて、呆ける私を見詰めていた。
生きている。死んだと思っていたつばきが生きている。
私はつばきに抱き着き、啜り泣いた。
「つばき……生きてた……」
「……あやめ」
「何?」
「これ、あげる」
そう言ってつばきは自分の左胸に手を埋めた。ずっ、ぐちゃっ、と音が室内に響く。
取り出された手の中には、あの光り輝く石があった。闇を切り裂くような美しい光が私たちを静かに照らす。
「僕はあやめが死ぬまでどこにもいかない。これはその証」
「……いいの?」
「いいよ。だから約束して」
「約束?」
「……ううん、何でもない。忘れて」
つばきは緩く首を横に振った。
私はつばきの手の中で輝き続ける石をそっと摘まんだ。「飲み込んで」と言われたので口に入れると蜂蜜のような味がした。
それを嚥下すると、強烈な睡魔に襲われた。倒れ込む私をつばきは受け止めてくれた。
「ごめんね」
謝るつばきに私は「謝らないで」と何とか告げた。きっと、どんなことをされても私はつばきを憎むことはない。
大丈夫、大丈夫。だけど、今はほんの少しだけ眠らせて欲しかった。
起きたら二人でまた夜の空を見たい。私とつばきが離ればなれになってしまう『その時』が来るまで、ずっと。
そこで私の意識は途切れた。
これが、私が『私』でいた頃の最後の記憶だ。
星屑にまみれた闇の世界をゆっくり泳ぐ宇宙船があった。乗客は二人。一人はカプセルの中で眠り続ける少女。もう一人はそのカプセルの傍らに座る金髪の青年だった。
「さっき太陽系を抜けたよ、あやめ」
声が少女に届くことはないと分かっていたが、それでもつばきは話しかけた。
小さな宇宙船が向かう先はとある惑星であり、つばきの故郷だった。
あやめとの永遠に等しい時間が欲しい。そんな愚かな欲求に突き動かされ、つばきはあやめを自分の星に連れ帰る道を選んだ。
初めは彼女にも言ったように、あやめが死ぬまで傍にいるつもりだった。そして、彼女の死を見届けてから母星に帰る気でいた。
それが変わったのは車に轢かれた自分に必死で呼びかけるあやめを見上げた時だった。自分のために怒り、涙を流す少女と過ごす時間を強く求めてしまった。
つばきの寿命は約千年だったが、あやめはせいぜい百年生きれるか程度だった。
あまりにも短すぎた。この少女と百年しかいられない。もっと短くなる可能性もいくらでもある。
あやめとの絆を死という形で断ち切りたくなんかなかった。そのためにつばきはとても残酷なことを行った。
二つある自分の心臓の片割れをあやめに渡したのだ。つばきの星の者は生まれつき二つ心臓を持っていた。その内の一つを体内に侵入させると、異星人の体の構造を作り替え、自分たちと同じ肉体に変貌させるのである。
現在、あやめの体は心臓に侵食されている。目覚めた時、もう少女は人間ではなくなっている。
一人の少女の運命をこの手で破綻させたことによる罪悪感も後悔もあった。それでも、もう戻れない場所まできていた。
あやめが帰りたい、と思わないように少女に関するものは全て消した。かつて少女を苦しめていた屋敷も、両親も、姉も、弟も、あの男も。
あやめの帰るべき場所であり続けたかったのだ。
「……地球に比べたら何の面白みもない僕の星だけど、君となら何もかもが美しく輝いて見えるような気がするんだ」
つばきの星まではあと三十年はかかる。あやめが目覚めるのも約三十年。それまでの間、つばきはこの船の中で一人で過ごさなければならない。
孤独ではない。
つばきはふと窓から見える星空へ目を向けた。あやめとよく見ていた景色。次々と蘇る二人で作り出した思い出を指先でなぞりながら瞼を閉じる。
それだけで十分だった。