いつか終わってしまう初恋に、わたしはあなたを巻き込んだ
あれは確か、七歳の時だった。
盛大に開かれた自分の生誕の宴の夜。わたしは尋ねた。
「ねえ、ラウル。あなたは一体、何をくれるの?」
大広間を埋め尽くさんばかりの宝物に浮かれていなかったと言えば、嘘になる。
父様からは、抱えきれないほどに大きな熊のぬいぐるみを。
母様からは、目の覚めるような美しいドレスを。
「ぼくは……」
「クリストフ様はこんなに大きな金剛石をくださったのよ。つまらないものだったら、許さないわ」
会ったこともない大国の婚約者は、誕生日には贈り物を欠かさなかった。それがただの慣例だとわたしが知るのは、もう少し後の話だ。
対して、目の前にいるのはやっと見習いになったばかりの十四歳の騎士である。王女付きになれた喜びを隠しもしない彼は、わたしの格好の玩具だった。
「フェリシエンヌ殿下」
ラウルは恭しくわたしの手を取ったかと思うと、おもむろに跪いてみせた。
夜の海のような黒い瞳が、真っ直ぐにわたしを見上げてくる。
迷いのない、静かな目。
「ぼくは王子殿下のように、宝石をお贈りするような大それたことは、何もできませんが」
ラウルはそっと、わたしの手を押し戴いて額に当てる。最大限の敬意と忠誠を示す、この仕草。
「ぼくは、ぼく自身をあなた様に捧げます。どんな時も殿下のおそばにいて、必ずお守りするとお誓い申し上げます」
それはわたしがまだ知らなかった胸のときめきをもたらした。
ああ、どんな眩いばかりの宝石もこの瞳の輝きには敵わない。
これがあればもう何もいらないとさえ、思ったのだ。
「そう。ならばあなたは一生、わたしのものよ」
けれど、幼いわたしは知らなかったのだ。
それがどれだけ愚かで、罪深い行いなのかを。
*
夢はいつも同じところで終わる。
「おはようございます、姫様」
目を開ければ、男が枕元に立っている。
「おはよう、ラウル」
引き締まった長身に、切れ長の黒い瞳。端整な顔立ちだが、壊滅的に愛想がない。まるで彫像のようだ。
どうしてこうなってしまったのだろう。夢の中ではあんなにかわいい少年だったのに。
「髪を梳かせていただいても?」
見ればもう、彼は身支度を完璧に済ませている。床に畳まれた毛布に、いつでも持ち運べるようにまとめられた荷物。その横にある、使い古された剣。いつもそうだ。一体いつ眠っているのだろう。
「好きにして」
くるりと背を向ければ、そっとラウルの手が髪に触れる。
硬い剣だこのある指が、耳朶を掠める。その度に、微かに心臓が跳ねる。
王宮にいた時から髪を結われることは常だった。侍女にされる時はこんなことを思ったことはなかったのに。
こんなこと、この人はどこで覚えたのだろう。少なくとも騎士にさせることではないと分かっている。
けれど、これはラウルのたっての願いだった。この逃亡生活が始まってからの日課になっている。
「できました」
にしても毎度毎度凝った髪型にするものだと思う。どうせフードを被ってしまうのに。
「では参りましょうか」
恭しく差し出される手を、わたしは取る。
「ええ、兄様」
促されるがままに、食堂へと向かう。宿泊客たちの明るい世間話が、一瞬止まる。誰も彼も、探るようにわたしたちを見ている、気がする。
妙齢の男女が二人。どう考えても普通ではない。
駆け落ちか、はたまた誘拐か。そういういかがわしい目でしか見られない。
わたしを端の方の席に座らせて、ラウルは二人分の食事を取りに行った。
「待たせた」
当然のようにラウルはわたしの隣に座る。
テーブルの上は、こんもりと山のように料理の乗った皿が置かれる。こんなに食べられないといつも言っているのに、残した分は自分が食べるからと言って聞かないのだ。
少しだけ大きな声で呼びかける。あからさまに周囲の人にも聞こえるように、はっきりと。
「ありがとう、兄様」
周りの空気がゆるんだ気がする。なんだ、兄妹なのか、と。
その度に、わたしはこの“設定”の強さを実感する。別段顔が似ているということもないだろうに。
考えたのは、ラウルだった。
『他人の男女がともに過ごすのは外聞が悪い。便宜上、兄妹としましょう。私のことは兄様と』
人はこんな顔で冗談も言えるのだなと思えるような、そんな見事な真顔だった。
『え、あなたが兄様? わたしの下僕の分際で? どうせならわたしがお姉様がいいわ』
『仕方がないでしょう。私の方が年上なんですから』
言い返されてわたしは黙るしかなかった。
「今日は馬で行こうと思う。いいか」
出会った時、わたしは王女で彼は騎士だった。
それが今は、兄と妹だなんて笑ってしまう。
「はい、兄様」
けれど、わたしの方が年上だったことなんて、一度もない。何がどう変わろうとも、これだけは変わらない事実だ。
手綱を引いたまま、ラウルはわたしを軽々と鞍に乗せる。それから自分はわたしの後ろに飛び乗った。
わたしは彼ほど早駆けはできないから仕方がないのだけれど、こんな風にされるとどうしても体が密着する。
「大丈夫ですか?」
二人きりになると、急に口調が敬語に戻る。さっきまであんなに兄ぶっていたのが嘘みたい。
「ええ」
「少し飛ばしますので。ご容赦を」
急がなければいけない原因は全部わたしにある。謝る必要なんてないのに。
確かな胸板にこつんと頭が当たる。この身はラウルの腕の中にすっぽりと収まってしまう。どうしたって自分の小ささを自覚させられる。
七歳の時、わたしはこの世界の全てを手に入れたつもりでいた。
けれど、それは八歳にして簡単に打ち砕かれた。
父様が、二人目の王妃を迎えたのだ。それは多分、母様がわたしを産んだ後から病がちだったことと無関係ではないと思う。
そうして、彼女は王子を一人産んだ。わたしの腹違いの、弟。なお、我が国は長子相続だ。
二人目の王妃――アデール様は強いお人だった。己の野心も願望も、少しも隠すことはなく、諦めることもなかった。
簡単なことだ。姉がいる限り、我が子が王にはなれないのなら、それを亡き者にすればいい。
ある日わたしは、自分の周りから少しずつ色々なものがなくなりはじめていることに気が付いた。
食事に毒のようなものが入り始めたのも、その頃からだ。
多分、故意と殺意の間ぐらいの量をいつも盛られるのだ。だから、死ねなかった。
その度に、アデール様は言う。
『なんてかわいそうに』
それは、誰に向けられた言葉なのか。生き残ってしまったわたしに向けてなのか、二番目の子に生まれてしまった己の子に対してなのか。
父様はアデール様の言いなりで、娘を守ってくれることはなかった。十歳の時に母様は死んでしまって、それっきりだ。
十八歳の成人を機に、大国の婚約者はあっけなくわたしを捨てた。迎えるはずだった王子は、弟に嫁ぐ姫に変わっていた。
相手なんて、誰でもよかったのだ。
かの国が求めたのは、わたしではない。王位に就く者だった。
お付きの人が目に見えて減っていく日々の中で、それでもラウルはわたしのそばを離れようとはしなかった。『そんなに言うなら明日からは下僕よ』と言ってもついてきたので、それから彼はわたしの下僕ということになっている。
この身を包む男の体温を感じながら、考えた。
ぬいぐるみも、金剛石も、婚約者も、全部なくなった。
父様も、母様も、もういないのに。
どうしてだか、この人だけがそばにいる。
それはわたしが願ってしまったからだ。そうやって手に入れた彼の人生を、わたしは手放せないままだ。
「姫様」
耳元で囁かれて、はっと我に返る。
「前方に、誰かいます」
手綱を引く彼の腕が強張るのを感じる。おそらく誰か待ち伏せているのだろう。
王妃は、わたしが王女だということは伏せて人相書きをばらまいた。そして、生死は問わずその者を捕え、証を持ってきたものに褒美を授けると言った。
ゆえにやたらと目立つ金髪は皆の知るところとなり、この顔を狙うものが後を絶たない。
こちらを取り囲むように人影が現れた。大方金に目が眩んだその辺りのごろつき達だろう。
わたしは何度も殺されかけている。
ラウルが手綱を片手に持ち替える。そのまま右手で剣を抜いた。おそらく突っ切るつもりだろう。
「その女を置いて行けっ!」
自分に向けられる殺気に慣れられるほど、わたしも図太くはない。そして、同じぐらい後ろの男が纏う空気が冷たいものに変わる。
「それはできない相談だな」
ラウルは低い声でそう答えるだけだ。すると、彼らは示し合わせたようにこちらに飛びかかってきた。
「しっかり捕まっていてください。できるだけ、体を低くして」
言われるがままにわたしはぎゅっと馬に抱き着くような姿勢になる。たまらず、目をつぶってしまった。
剣と剣がぶつかる音がする。あとは、矢が空を切る音。
人の気配が少しずつ減っていく。そうだ、この男は強い。
不意に、頭の上でひゅんっと鋭い音がした。背中に重みがかかって、けれどそれはすぐに離れる。がくん、と馬が大きく揺れる。
「っく!」
背中の向こうでラウルが喉で呻くような声を上げた。鼻先をかすめる血の匂い。これは、どういうことだろう。
「ラウル?」
振り返ろうとしたら、鋭い声に止められた。「動くなっ!」
最後に残っていた敵を斬り捨てて、ラウルは馬を駆る。わたしはそのまま身じろぎ一つできず、何が起こったのかは分からなかった。
ほとんど休まずに馬を走らせて、一番近くの町に着いた頃にはもう日が暮れていた。
運よく空いていた宿屋に泊まれるように、ラウルは話をつけてきた。わたしは野宿でもいいと言っているのに、彼はここを決して譲ってはくれない。
それでも、宛がわれた部屋に入って扉を閉めた時やっと人心地がついた気がした。その時彼の右手から、ぽたりと赤い雫が落ちるのが見えた。
「ラウル、その手!」
慌てて抱き着くようにしたら、男は形のいい眉を顰めた。それが痛みのせいなのか、なんなのか分からない。
「大きな声を出さないで。ここはそこまで壁が分厚いわけではないので」
耳元で掠れた声が言う。
「かすり傷ですよ。大したことではないです」
「うそ、見せてみなさいよ」
黒い外套をぎゅっと掴めば、小ばかにしたようにラウルが笑った。「姫様は、男を脱がせる趣味がおありで?」
こういう冗談を言う彼は、珍しい。はぐらかす気満々だ。
本当にその服を引き剥がしてやろうかと思ったところで、左手が頬に触れた。
途端、痺れたように動けなくなった。
手の甲でそっと確かめるように、わたしの輪郭をなぞる。
「お怪我はないですか?」
かっと、顔が熱くなっていくのを止められない。あんなに確かに守られていて、怪我なんかするわけないのに。
「だい、じょうぶ」
かろうじてそう返事をするのがやっとだった。切れ長の目元がふっとやわらかくなる。
「なら、よかった。私は自分で手当てをしますので、ご心配なく」
「で、でも」
ほつれた髪をゆっくりと長い指が梳いていく。ずっと馬に乗っていたから、砂埃も浴びてしまっている。そのことが、急に恥ずかしく思えてくる。
「下で湯を分けてもらえるように女将に頼んであります。姫様もお疲れでしょう?」
いつの間にそんなことまで頼んでいたのだろう。けれど、この髪を見られてしまったら気づかれてしまうかもしれない。
不安を見透かしたように、ラウルは続けた。
「女将は目が見えないそうです。ご主人は厨房からほとんど出てこないようなので、ご心配は不要かと」
「どうしてそんなことまで知っているのよ」
「以前騎士団の遠征でこの辺りに来たことがあるので。その時に」
こんな時まで本当に抜かりがない。しかし、風呂に入れる機会は貴重だ。
「ねえ、兄様。一緒に入る?」
戯れに戯れを返してみたら、ラウルは露骨に嫌そうな顔をした。
「兄妹ならば、それぐらい」
「いい加減にしてください」
いい加減にしてほしいのはこっちの方だ。ただ、早く手当てをしてほしいのも事実だった。
代わりに首の後ろに手を回す。いつも身に着けているネックレスを外してその手に預ける。
逃亡中の王女には不釣り合いに煌びやかな、それ。
わたしがここにいたら、この男は自分の手当てなんてしてくれないだろうから。
「ちゃんと、手当てをしてね。約束よ」
観念してそう言うと、金の鎖をラウルはぎゅっと握りしめた。そのまま大きく頷く。そうして、わたしはフードを被り直して階下へと歩を進めた。
食堂に行くと、足音に気づいたように白髪の女性が顔を上げた。食事の時間は終わっているのだろう。人気がないことに安心して、わたしはフードを下ろした。
「話は伺っておりますよ。さあ、こちらに」
まるで見えているかのように確かな足取りで、女将は歩いていく。奥の一角に衝立がある。その向こうに風呂桶が置かれていた。
「今湯を持ってきますからね。少しお待ちを」
女将は厨房から何度か湯を汲んできたかと思うと、手を差し入れて温度を確かめた。うんうんと頷いたら、わたしを振り返る。
「もしよろしければ、お手を見せていただいても」
「はい」
何をされるのかと思ったが、わたしは恐る恐る女将の前に手を広げた。
「なるほど。これはこれは」
皺の寄った手が、そっとわたしの手を撫でていく。たったそれだけのことで、一体わたしの何が分かるというのだろう。
「お兄さんが過保護になるのも当然でしょう。さぞ、お顔立ちも美しいのでしょうね」
濁ったようなその目に、この姿を捉えられた気がした。
「ああ、いや、そんな」
「きちんと見張っておきますからね。安心してお入りください」
「あの、お金は」
湯を借りるのにいくらするのだろう。世間知らずのわたしは相場も分からない。
「先にお兄さんに頂いておりますよ」
にこりと微笑んだ女将は衝立の外、戸口の方に消えていって、わたしは一人残された。
せっかく用意してもらった湯が冷めてしまう。わたしは一つため息をついて、朝ラウルが結ってくれた髪を解いた。続いて、着ていた服を全て脱ぐ。
狭い風呂桶とはいえ、身を沈めればほっとする。足先からじわじわと温まってきて、体がどれだけ強張っていたのかと実感する。少しだけ、王宮のバスタブを思い出した。
髪を浸せば、ぴちょんと水音がする。上がる湯気とともに天井を見上げる。ラウルはちゃんと、手当てをしただろうか。
大国からの婚約を破棄され、後ろ盾を失ったわたしに、もう王宮での居場所はなかった。
いつ死んだって問題ない。
乳母だけが、わたしを不憫に思いなんとかして逃がそうとしてくれた。その時に選ばれてしまったのが、彼だった。
『姫様がお一人で逃げる? 女の身でそんなことできるわけがないじゃないですか。どうやってご自身をお守りするおつもりで』
真顔で彼にそう言われてしまえば、もう何も言い返せなかった。
時々、考える。両手で掬い上げた湯の中に、自分の顔が映る。
わたしが、男に生まれていたら。母様が死ななかったら。
そうすれば、わたしはあのまま王宮にいられただろうか。仮にこうなったあとでも、一人でも逃げおおせることができただろうか。
どんなに考えても、詮無きことだとは分かっているけれど。
次に、もしラウルがいなかったらと考える。
彼がいなかったらわたしは今ここにいないだろう。
多分、もう三回は死んでいる。その度にラウルはわたしを守ってくれた。
水面が揺らめいて、金髪の女の顔が歪む。なんて顔だ。それを打ち消すように、わたしはばしゃりと顔に湯をかけた。
あの女将の目が見えないことに心の底から感謝した。こんな情けない顔を、彼女には見せずに済んだのだから。
タオルを被って階段を上る。ほかほかとした気分のまま扉を開ける。
「ラウル、ただい、っきゃ」
広い背中が惜しげもなく晒されていて、わたしは思わず目を覆った。
「ひ、ひめさま!?」
ラウルの声が珍しく裏返る。
びっくりした。まだ手当ての途中だったのか。
これでは本当に破廉恥な女じゃないか。覆った指の隙間からわずかに肩口に見える包帯に、ちゃんと手当てをしていたんだとは分かって安心する。
「み、見てない! 何も見ていないから。外にいるから、終わったら声を掛けて」
そのままくるりと向き直る。乱暴に外に出て、わたしは息を吐いた。
言った通りだ。ほとんど見ていない。それでも、盛り上がった肩甲骨の辺りやしなやかな筋肉が、目に焼き付いたように離れない。
わたしは彼に守られているのだ。
しばらくしてから、扉が内側から開いた。
「すみません、お待たせしました」
当然ながら、ラウルはちゃんとシャツを着ている。それでも、いくらか気まずそうに目を逸らす。
「もう、大丈夫なの?」
思っていたより時間がかかっていた。ということは、もしかして深い傷なのではないだろうか。
覗き見た背中をもう一度思い出そうとして、どうしていいか分からなくなった。
伸ばした手は宙ぶらりんのままになる。
「ええ、ご心配には及びません」
ラウルは押し留めるように、左手でわたしの手を取った。
「それより髪を乾かしませんと。濡れたままでは冷えます」
わたしは空いている方の手でタオルを掴んで後ずさった。
「それくらい、自分でできるから」
「以前そう仰った時は、それはそれはもう、ひどい有様でしたが」
きゅっと手を引かれれば、それ以上はもう下がれなくなる。
大きくて硬い手。
それは、湯であたたまったこの手と同じぐらい、あたたかい。
「……分かったわよ」
仕方なく言われるがままにわたしは椅子に座らされて、甲斐甲斐しくまたラウルに髪を乾かされることになった。
だからそれ以上、彼の傷のことを尋ねることはできなかった。
「少しだけ、この町に留まろうかと」
翌朝、わたしの髪を梳きながらラウルがそう言った。
「どうして?」
今まで町への滞在は最低限だった。追手がいつ来るかも分からないのだ。すぐに次に向かった方がいい。
「広場の人相書きは白黒でした。辺境まではまだ、手が回っていないのだと思います。なら、下手に動き回るよりじっとしていた方が賢明かと」
ゆるやかに髪は結ばれていく。背中の向こうにいるから、ラウルがどんな顔をしているのか見えない。
「補充したい物資もありますし、姫様も慣れない暮らしは大変でしょう。この辺りで少し休まれた方がいい」
今日の髪型は、比較的簡単な編み下ろし。最近の凝った髪型からすると、少し趣向が違う。これもラウルの好みだろうか。
紐が結ばれ終わったところで、振り返ってラウルの顔を見上げる。
「ねえ、傷は」
「血はもう止まっています。問題ありません」
いつもと変わらぬ怜悧な相貌。こんなに近くにいるのに、何を考えているのかちっともわからない。
けれど、どんなことがあっても、ラウルは痛くてつらいから休みたい、とは言わないだろう。
「そうね。休ませてもらおうかしら」
「はい」
ただわたしが休むのなら、彼はそれに付き合わざるを得ない。そう思って、ここに留まることを決めた。
時折、女将が気を遣ってくれる。
夕食の後、旅の人からもらったりんごを分けてくれたりするのだ。
そのさりげなさがありがたかった。おかげで、わたしは少しだけ息苦しさから解放された日々を過ごした。
北に来た分は冬が訪れるのが早い。王都を逃げ出したあの日から、少しずつ季節が進んでいることを実感する。
寝台に入っても、足先が冷えて眠れない。ラウルはわざわざ女将に頼んで暖炉で石を温めてもらった。
それを布袋に入れて抱えて寝たのだけれど、もう冷えてしまった。冷たいだけの石を持っていると、余計に冷える。
枕の下に手を入れる。隠すように置いてあるのは、母様のネックレスだ。
風呂と眠る時以外はずっと身に着けている。
金細工の精緻な模様に、母が輿入れの時に持ち込んだ多くの宝石があしらわれている。
形見としてもらい受けたから、アデール様もこれを奪えはしなかった。
わたしもこれをお金に変えようとは思えなかった。
結果として手元に残る、わたしが王女だったことの唯一の証のようなものだ。
月明かりが青い宝石に落ちて、シーツの上に虹色のきらめきを落とす。粗末な町の宿屋には似つかわしくない代物だ。わたしはまたそれを枕の下に戻した。
そっと起き上がると、扉の横で座り込んでいた彼が顔を上げた。
「どうか、しましたか」
起こさないようにしたつもりだったのに。
逃亡生活の最初の頃、夜に襲撃を受けたことがあった。それを警戒しているのか、ラウルはいつも扉のそばで眠る。わたし一人を寝台に寝かせて。
「その、寒くて」
ラウルは壁に手をついて立ち上がったかと思うと、ためらいがちにわたしの指先に触れた。端整な顔立ちが一瞬で翳って、彼は布袋を掴む。
「もう一度、女将に頼んできます」
「だめよ。もう寝ている時間よ」
慌てて、わたしはラウルの手をぎゅっと握った。
とっくに暖炉の火も落としているだろう。いくら懇意にしてくれているとはいえ、こんな時間に起こすのは忍びない。
「ですが」
黒い瞳はいくらか彷徨って、それから自分が包まっていた毛布に目を向けた。
だめだ。あれまでもらってしまったら、この人が本当に風邪をひいてしまう。
「あのね」
そうだ、簡単なことだ。わたしは両手で、大きな手を握り直す。凍えたような手に、男の体温が染みていく。
「ひめさま?」
切れ長の目がまん丸になった。けれど、手が振り払われることはない。端に寄ってから、とんとん、と寝台を示すように叩く。
「兄は妹が凍えていたら、眠るまで一緒にいてくれるのではないかしら」
「ばかを言わないでください。ご自分が仰っていることの意味が、ちゃんと分かっていますか?」
分かっている。ちゃんと分かっている。
そもそもわたし一人が寝台にいることがおかしいのだ。
この人だって、鉄でできているわけではないのだ。ずっと床で眠るのは堪えるだろうに。
「毛布を持ってきて。あなたもここで寝るのよ」
わたしがそう言うと、ラウルは押し黙った。
「それとも、わたしも床で眠ろうかしら」
長身は天を仰いで、わしゃわしゃと前髪をかき上げる。手を離せば、ラウルは自分の毛布を取って戻ってきた。
「……分かりました」
ラウルは、わたしが包まっている上掛けの上にさらに毛布を掛ける。
それからブーツを脱いで、寝台の前に揃え直した。こんな時まで本当に、そつがない。
意を決したように、ラウルは大きくため息を吐く。
「失礼、します」
「どうぞ」
男の体重の分だけ、簡素な寝台は沈む。端から少しも動かない彼に、わたしは手を伸ばした。
「姫様っ」
その胸に飛び込んで、ラウルにも上掛けと毛布を掛けるようにする。
「だって引っ付かないと、入れないでしょう」
鎖骨に額をのせたら、ラウルが堪えるように呻いた。
「……っく」
「ラウル……?」
見上げても、顔は見えない。闇の中に飲まれたようになるけれど、その息遣いは確かに感じられる。
蹴出した爪先に膝頭が触れる。慌てて引っ込めようとしたら、背中に左手が回された。
「きゃっ」
「あなたという人は」
ぴたりと体が密着して、わたし達の間の距離が消える。男の手に宥めるようにとんとん、と背を叩かれる。まるで子供の寝かしつけみたいだ。
二人分の体温で布団の中はあたたまっていく。わずかに逸るような、ラウルの心臓の音がする。
ああ、なんてこの人はあたたかいのだろう。石なんかとは比べ物にならない。
わたしを抱き寄せる腕の力が少しだけ強くなる。
意識が泥に沈んでいくようになる。
頭がぼんやりとしていって、背中に回るラウルの腕のだけが命綱のように感じる。
そっと額に吐息がかかって、それからあたたかな何かが下りてきた。
「おやすみなさい」
触れたか触れないか、そんなかすかな口づけ。
これは、一体何だろう。
尋ねたいのに、もう瞼が動かない。それとも、兄なら眠る前に妹にキスすることも当然なのだろうか。確かに、母様はよくこんな風にしてくれた記憶はあるけれど。
このまま二人で一つに溶けていければいい。
揺蕩う水のようなまどろみの中で、そんなどうしようもないことばかりを考えた。
*
王宮の庭に大きな池がある。
冬はそこに氷が張って、王族の方々がスケートをするのが古くからの習わしだった。
ある年、アルフォンス王子がそこでスケートをしたいと言い出して、フェリシエンヌ殿下もそれに駆り出された。
俺は、ひどく嫌な予感がした。
そもそも、たった五歳の王子様がそんなにスケートをしたがるだろうか。これは弟を利用したアデール様の思惑に違いない。そう思った。
『姫様、お断りしましょう。これは絶対に何かある』
『何かあるって何よ。スケートの最中に暴漢がやってきて斬られるとか? さすがにそれはないか』
毛皮のコートと手袋を用意しながら、あっけらかんと姫様は言う。
『それともなあに? どこかから矢で射かけられるとかかしら?』
彼女は少しも気にかけてないのを、隠そうともしなかった。
人前では楚々として王女然とふるまうようになったこの人が、俺相手には未だに軽口を叩いたり素直にむくれたりしてくれることが嬉しかった。
むしろ自分だけに見せてくれるそれを甘美に感じてもいた。
それでも、これは困る。
『真面目に聞いてください。俺は本気で』
青い澄んだ目は、俺を見上げて微笑むだけだった。
『ならば、あなたがわたしを守ってくれればいいじゃない。さ、外は冷えるわよ』
背伸びをしたかと思うと、するりと毛糸のマフラーが巻かれる。俺はもう何も言えなかった。
冬のはしり、氷の張りはまだ薄かった。
真ん中の辺りは割れる危険があるので、岸辺の辺りでスケートをするようにと言われていた。
王子と沢山のお付きの人がいる。勿論、アデール様も一緒だ。
対して、フェリシエンヌ殿下の周りには明らかに人が少ない。項の辺りがぴりぴりする。神経を張り巡らさざるを得なかった。
しばらくの間、和やかにスケートは進んだ。俺は警戒するように、少し離れたところからそれを見ていた。
気が付いたのは、いつの間にか王子の姿が消えていたことだった。隣にいたアデール様もいない。
ぽつんとフェリシエンヌ殿下が池の真ん中あたりに立っている。さっきまで、すぐ近くにいたのに、なぜ。
静謐な冬の空気に、ぴしり、と氷にひびが入る音までもが聞こえるようだった。
誰かが突き飛ばすように、姫様の背中を押した。
「姫様っ!」
思わず、俺は走り出していた。
くるりと、姫様が振り返る。その髪が、揺れる。なんて鮮やかな金。
薄い唇が、わずかに動く。彼女の声は聞こえない。
ゆっくりと姫様の姿が、池の中に消えていく。
迷わず、俺は池の中に飛び込んだ。身を切るようなその水の冷たさも感じなかった。あの時は何も、考えていなかった。
すぐに助け出したことが功を奏して、姫様は大事には至らなかった。
王女を突き落としたアデール様付きの侍女の姿は、俺以外の者にも目撃されていた。
アデール様はそれを重く見て、侍女を断罪し追放した。けれど、それだけだった。
池に飛び込んだ時、俺は姫様が巻いてくれたマフラーを失くしてしまった。きっと外れて池の底に沈んでしまったのだと思う。
あれからずっと、夢を見る。冬になると、それはより鮮明になる。
夢の中で、俺は走っている。
何度繰り返しても、俺の手をすり抜けて、姫様は池に飛び込んでしまう。
ある時は微笑んで、ある時は悲しそうに。
俺の手は、いつも届かない。解けたマフラーと一緒に、姫様は消える。
あの時は、姫様は俺に一体、なんと言ったのだろう。それは絶対に聞こえることはない。
ただ、もし「来ないで」だったとしたら。俺はどうすればいいのだろう。
眠れないのは、恐ろしいからだ。
刺客も王妃も、何も怖くはない。ただ強くあればいいだけの話だ。そうすれば、この人を守ることができる。
けれど俺は、あの人が自分を手放してしまうのが恐ろしい。
眠っている間にあの人がいなくなるなんて、耐えられない。
だから、俺は寝台では眠れない。
俺の肩に丸い額が乗せられている。小さく華奢な体。強張ったようなそれから、やっと力が抜ける。姫様はやっと眠ったようだった。
左手でその髪を撫でる。絡みつくように、それは俺の手に馴染む。
池から抱き上げた姫様の体は、濡れて冷え切って、重かった。ぐったりとしたあの重みを、俺は忘れたことはない。
起こしてしまわぬようにと気をつけて、ぎゅっと抱き寄せる。
ああ、ちゃんとあたたかい。彼女はここで、ちゃんと生きている。
たとえ何がこの人を連れ去ろうとしても。
俺の腕の中にいるこの今、姫様は俺のもの。俺だけのものだ。
あなたが明日も目覚めてくれますようにと願って、俺は額に口づける。
他にはもう、何も望まない。
*
朝起きると、目の前で男が眠っていた。
窓から差し込んだ光が、長い睫毛の影を落とす。表情の抜け落ちたその顔が、まるで神様が特別に造り上げたかのようだった。
これは、目覚めて一番に見ていいものではない。心臓に悪い。
けれどわたしは魅入られたように、目が逸らせなかった。
本当に生きているんだろうか。そう疑いたくなるぐらいに美しい。
そっと手を伸ばす。すべらかな肌に、指先が触れる。
ああ、ちゃんと体温がある。
そう安心して、もう一度触れたところで、気が付いた。
「ラウル……!」
頬を、額をなぞる。明らかに熱い。
熱があるのだ。よく見れば呼吸も荒い。そもそも、ラウルはいつもわたしよりも随分先に起きている。余程具合が悪いのだ。
思い当たることが、あった。
仰向けに寝かせて、シャツのボタンを外す。正しい淑女はこんなこと決してしないだろう。けれどそんなことを言っていられない。
傷を負った右肩。そっとそこに触れる。きれいに巻かれた包帯には膿のようなものが滲んでいて、明らかに熱を持っている。
「ばかじゃないの」
全然大丈夫じゃない。この様子だとずっと痛みがあったはずだ。ラウルはそれを、周到に隠し通した。
慌てて階段を下りる。背中で髪がふわふわと踊る。早朝の食堂では、女将一人が朝食の準備をしていた。
「あらあら。どうされました? まだお食事の準備ができてませんで」
「どうしよう」
その穏やかな顔を見たら、膝から力が抜けていくようだった。女将の手が、わたしの髪を撫でる。結われていない、無造作なままのこの髪を。
「お兄さんに、何かありましたか」
フードを被せてから、女将が尋ねた。
「ラウルが、死んでしまうかもしれないの。怪我をしてたのに、無理をしたの。わたしが、わたしのせいで……」
一緒にいる人にもっと気を配らなければならなかった。あの人はわたしの不調を見逃したりはしないのに。
「この町に、お医者様はいらっしゃいますか? あの、どうしても、彼を診ていただきたくて」
わたしがそう言うと、ぎゅっと包み込むように女将に両手を握られた。
髪に触れる手。頬をなぞる手。背中に回された、彼の手。
ラウルの手はこんな風にはやわらかくなかった。
「大切な、お人なのですね」
嚙みしめるように、女将が言った。
握りしめた手に、ぽたりと、何かが落ちてきた。それは留まることを知らずに、溢れてくる。
ああそうだ。こんなになるまで、気が付けなかったけれど。
ラウルは、やさしくて、正しくて、あたたかい。
わたしはその大切な人の人生を奪ってしまうかもしれない。それが何よりも恐ろしい。
「はい」
わたしは手の甲で涙を拭った。喉が焼けるように、熱い。
「広場の近くの通りに、医者がおります。頼めば往診もしてくれるでしょう。ただ……」
女将はその先を言いよどむ。言いたいことは分かる。どこの町でも薬は高価で、だから治療を受けられず死んでいく者がいる。
王宮にいる時は、そんなこと、考えたこともなかったけれど。
わたしのためにラウルが無駄遣いをしたから、路銀の残りはそんなに多くはないはずだ。手持ちで医者にかかれる保証はない。
俯いたら、長い自分の髪が目に入った。それをそっと撫でる。
ラウルがずっと梳いてくれていたこの金色の髪。
ああ、そうか。
あるじゃないか。お金を手に入れる方法。
「お医者様を呼んでいただけますか? お金はちゃんとあります」
もう一度涙を拭ってから、わたしは言った。
「よろしいんですね?」
「ええ」
わたしは王女だったから、追われる羽目になった。
けれど、王女だったからこそ、まだ差し出せるものがある。
「あと鋏を、貸していただけますか?」
わたしが微笑むと、女将はその目を見開いた。
これからわたしが何をしようとしているか、彼女は全てを分かっているようだった。
とても悲しそうだったけれど、女将はそれ以上何も言わずに頷いてくれた。
*
しなやかな手が、髪を撫でる。冷たい布が額に当てられて、同じぐらい冷たい手に手を握られた。
何度も何度もそれが繰り返される。
――しなないで。
耳元で囁く声が聞こえた気がして、俺は目を開けた。
「……っ!」
起き上がれば、右肩に差すような痛みが走った。矢で射られていたのを忘れていた。引きつるような感覚はあるが、体自体は随分と軽い。
見回せば、部屋には誰もいなかった。薄闇は、明け方なのか夕方なのかも区別がつかない。手のひらをすべらせたシーツは冷たくて、俺以外の体温の形跡はない。
肩を見れば、包帯は新しいものだった。俺の巻き方とは少し違う。つんとした薬草の匂いがして、自分が適切な治療を受けたことが分かった。
俺は一体、どれだけの時間眠っていたのだろう。
慌てて枕の下に手を入れる。姫様が形見のネックレスを隠す場所はいつもここだ。
指先は何にもぶつからず、枕を取り去ってもそこには何もなかった。起きているなら、彼女がこれを置いていくはずがない。
裸足のまま、階段を駆け下りた。階下の食堂の空気は妙に湿っぽい。まるで何かを悼んでいるように。
天井から、黒いリボンがかかっているのが見えた。王族か、それに類する人が亡くなった時に服す喪のしるしだ。
頭に浮かぶのは、たった一人の名前。俺はずっと、それを拒んでいる。
酒を呷ってから、客の一人が言った。
「まだお若かったのにな、フェリシエンヌ殿下」
殴られたかのように、頭ががんがんする。全身から力が抜けそうになったところで、背中の向こうから声がした。
「ラウル」
振り返れば、少女がいた。
顎先辺りで切りそろえた金色の髪が揺れる。
死を悼む黒の喪章のちょうど下、ほかならぬフェリシエンヌ殿下が笑っていた。
「どうしたの。まだ起き上がってはだめよ」
そっと右手で毛先に触れる。ずきんと、痛みが走ったがもう気にならなかった。確かめるように指先で梳いていく。
するりとこの手の中を流れていったあの髪の感触はない。代わりに指先は空を切る。
「ああ、これね。どうかしら? 似合っていない?」
にこりと彼女は首を傾げてみせる。清々しいほどに明るい笑顔で。
「ひめ……さ」
目の前のこの人をなんて呼べばいいのか、もう分からなかった。
食堂のざわめきが静まっていって、自分たちに視線が集まっていく。
けれど皆が怪訝に思っているのは、彼女の金髪ではない。裸足で宿屋の食堂にやってきた不審な俺の方だ。
ぺこりと、彼女は頭を下げた。「お騒がせしてすみません」
「らう……兄様。二階に戻りましょう」
背中を押されて、階段を上らされる。支えるように腰に手が回された。
部屋の扉が閉まってから、腰にある小さな手を掴んだ。
そのまま抱き上げて寝台に運ぶ。右肩が軋んだようになる。
「ラウル、やめて、傷がっ」
抗議のように上がる小さな悲鳴を、俺は聞こえなかったことにした。
寝台の縁に座らせて、ブラウスの襟元に手をかける。確かめるようにくつろげても、そこにネックレスはない。ただ白い首筋だけが浮かび上がる。
「フェリシエンヌ殿下」
俺は彼女の前に膝を突き、目線を合わせた。
決してはぐらかすことなど、できないように。
「一体何を、したんですか」
ここまでの行いを不敬だと咎めてもよかったのに、そうはしなかった。
「何って言われても……もう、全部見たでしょう?」
彼女は、右手でぎゅっと左腕を抱き寄せるようにする。
「刺客の一人を呼び出して、取引をしたの。王女は死んだと言って、証拠に髪とネックレスを渡したの。代わりにお金をもらった」
「その場で王女本人だとバレたら、どうするつもりだったんですか!」
危なっかしいにもほどがある。一人でそんなところにのこのこ乗り込むだなんて。
「あなたの外套も渡したから。返り血だと言ったら、なんとなく乗り切れたわ。そもそも、こんな短い髪の王女殿下なんて、いないわよ」
するりと、彼女は指先で髪をさらう。ぴょん、と跳ねたようになって金の粉が舞ったようにきらめいた。
「仮に王妃が信じなくても、ネックレスは売れば金になると言えば引き下がったわ。あれは、いいものだもの」
なるほど、筋は通っている。この時期でも、首そのものを王都まで運ぶのは危険すぎる。
その点、髪は証としては十分だ。
けれど、だからこそ、腹が立つ。
すっと青い瞳がそっぽを向いた。
「もういいじゃない。王女殿下の一人や二人ぐらい、いなくなったって」
ああ、また、あなたはそんなふうに言う。
俺がどれだけ、あなたを想っているかなんて、知らないで。
「これで、もう追われることもないわ。あなただって、」
遮る自分の声は、ひどく大きく響いた。
「いいわけないだろう!」
何よりも、大切にしてきたつもりだった。命だって、惜しくはなかった。
それでも、この手はまた届かない。
“フェリシエンヌ殿下”は死んでしまった。
このまま俺の前からも、消えてしまう気なのか。
「きゃっ」
華奢な肩を掴んで押し倒す。こんなことならもっと、早くこうしておけばよかった。
横たえれば、金髪はふわりと跳ねるようになる。
「もういい。もう、俺のものにしてやる」
乗りかかれば、ぎしりと寝台が軋む。
「そうね」
こんな状況だというのに、その目は揺らぎもしなかった。乾いた声が言う。
「いいわ。それであなたの気が済むのなら。この体を、好きに使って」
はだけた襟元に、彼女は手をかける。細い指はしゅるりとリボンを解いていって、胸元が、薄い腹があらわになる。
「ずっと返さなきゃって思ってたの。わたしが、あなたを縛り付けたから」
「違う」
きゅっと、細い手首を掴んだ。
俺は、この人に騎士としての忠誠を誓った。けれど。
「俺は、もっと」
「じゃあ、どうすればいいの」
握りしめた俺の手を、彼女は握ってきた。自分の手の上に、折れてしまいそうなほどに細い手が重なる。大した力でもないのに、振りほどけなかった。
「わたしにはもう、何もないわ。王女でもなんでもないわたしは、あなたに一体何をあげられる?」
*
「……あなたは」
沈黙を切り裂くように、掠れた声が言った。俯けば黒髪が流れて、彼がどんな顔をしているのか分からなくなる。
「あなたは、いつもそうだ」
ただ広い肩が痛々しいほどに揺れた。
どん、と大きな音がして、頭の横に両手を突かれる。檻のように閉じ込められて、目の前の男と見つめ合った。
黒い瞳に膜が張ったようになって、ぶわりと盛り上がる。
「俺は、こんなことが、したいんじゃないっ」
何かが、落ちてきた。それはわたしの頬に、雨のように降る。
わたしは、ラウルの涙をはじめて見た。
十一年間、ラウルはわたしのそばにいてくれた。
襲われても射られても声ひとつ上げなかった人が、子供のように泣いていた。
「どうして、生きようとしてくれないんですか」
ぎゅっとその腕にかき抱かれる。硬い手が首筋をなぞる。そのままラウルはわたしの肩口に顔を埋めて、動かなくなった。
くぐもった声が、耳元で響く。
「返してくれだなんて思っていない。そんなこと、どうだっていい」
今までの抱擁とは違う。彼はいつも、壊れもののようにわたしを包み込むだけだった。
いつになく強い力で抱きしめられて、わたしは身じろぎ一つできなかった。
そして、その気になれば、この人はいつだってこうすることができたのだと気が付いた。
「俺はずっと、あなたが生きるのを諦めてしまうのが何よりも怖かった。池で溺れた時だってそうだ」
ラウルがゆっくりと顔を上げる。
「フェリシエンヌ、さま」
彫像のような顔がぐしゃりと歪んだ。
「あなたは、あの時、一体なんて言ったんですか」
「ラウル」
濡れた頬に手を伸ばす。指先に涙が触れる。それを拭おうとしたら、また手首を掴まれた。
「はぐらかさないで。ちゃんと教えてください」
叱責されて、わたしの手に彼の手が重なる。きゅっと繋がれれば、やはりこの手は熱い。
「だから、『ラウル』よ」
ぱっと黒い瞳が見開かれた。濡れた睫毛が確かめるように瞬きをする。
例えば、「助けて」と言ったら、必ずこの男は来るだろう。
けれど、「来ないで」と言っても、きっとこの男は池に飛び込むだろう。
吸い込まれていくように池に落ちていく中で、わたしはそれ以上、何も言えなかった。
ぎゅっとラウルの首に手を回す。
わたしは、諦めていたのだろうか。いいや、そんなことすらも考えたことがなかった。ただ、
「分からなかったの」
泣いている男の髪をゆっくりと撫でる。まるで小さな子供にするように、そっと。
時折、しゃくりあげるようにその背が震える。
「自分が何のために、生きているのか」
手に入れたと思っていたものが一つずつ零れ落ちていく度に、輪郭が溶けていくようだった。
今はもう、己が何者かも分からない。
「わたしは、」
それより先を、言わせてもらえなかった。
「……っ」
唇で唇を塞がれた。あたたかなそれが繰り返し触れる。
まるでわたしを、呼び戻そうとするかのように。その感触に覚えがある。
命そのものを吹き込まれるような、それ。
あの、冷たい水の底を思い出す。
ああ、そうだ。泡のように消えていく世界で、わたしはこうやって、この人に生かされた。
大きな手が頭の後ろに当てられる。それは逃さないとばかりに、押し付けてくる。この手が、この腕が、わたしを掬い上げてくれた。
「生きていて。俺のために生きていて」
とん、と額が合わさった。すぐそこに、真っすぐな光を湛えた黒い瞳がある。
「俺はただ、あなたに、明日を望んでほしい。それさえくれるなら、もう、何もいらないから」
ラウルが求めたのはたった一つ、そんなことだった。
ずっと欲しかった生きる意味を、この男は与えてくれるという。
わたしはゆっくりと、息を吸った。
「いいの」
何も返せなくとも、与えられなくても、わたしはここにいていいのだろうか。
「いいに決まってる」
苦しいぐらいに抱き寄せられる。この力はそのまま、彼の想いそのものだ。
「だめだと言うやつがいたら、俺が全部斬り捨てるから。だから」
ラウルはずっと、そうしてきてくれた。
わたしを守り、わたしを慈しみ、わたしを、愛してくれた。
「ねえ、ラウル」
わたしは、欲しがっても、いいのだろうか。
「あなたの全部を、わたしにくれる?」
男はただ静かに微笑んだ。少しだけ呆れたように、少しだけ拗ねたように。
「何を今更」
恭しい仕草で、ラウルはわたしの手の甲に口づけを落とす。
「喜んで」
清々しい顔に浮かぶのは、恍惚にも似た表情。
なぜだろう。わたしはこれを、見たことがある気がした。
「俺の全てはずっと、あなたのものですよ」
「そう」
涙の跡が残る頬を両手で包み込む。だったらわたしももう、迷わない。
いつだって、その目にはわたしだけが映っている。
「返さないわよ」
口づけに口づけを返したら、男が震えた。その腕に抱かれて、わたしはゆっくりと目を閉じる。
*
「こんにちは」
声をかけられて青年は振り返った。会えればいいなと思っていた。今日はいい日だ。
最近店を懇意にしてくれている宿屋の娘だ。女将の遠縁か何かで、手伝いをしている。
「今日は、何かいいものがあるかしら」
彼女が微笑めば、肩口までの髪が揺れる。王族や貴族の娘は、腰まで髪を伸ばすらしいが、町娘だとそうはいかない。それでも、この長さは少し短い。ただ、とてもよく似合っている。
近頃じゃ彼女を目当てに宿に泊まる客も多いという。
「ちょうど、りんごが入ったんだ。買って行くかい?」
「まあ、嬉しい。いただくわ。兄様の好物だもの」
ただ、この“兄”というのが曲者なのだ。
それはそれは、目の覚めるような美男らしい。彼に淡い思いを抱いている町の女も多くいる。
長身の男は、主に裏で力仕事をしているようなのだが、旅の者が少しでも彼女にちょっかいでもかけようとしたら、いつの間にか控えるようにして立っているという噂だ。
咎めるということもない。割って入るということもない。けれど、あの黒い瞳で一睨みされると、身も凍るようだと、旅人の一人が言っているのを聞いた。
自分はまだその兄を見たことはないが、こんなかわいい妹がいたら気が気でないだろうなとは思う。
「そういや、王女様の帰天の儀が行われたらしいね」
青年はふと、空を見上げて言った。ついこの間まで町中にあった黒いリボンが消えている。
昨年、フェリシエンヌ王女殿下は亡くなった。突然の病だったという。
「そうね」
娘も顔を上げる。その目は、見上げる空と同じ色をしている。
「まだたった十八歳だったのにな。かわいそうに」
ここから遠い王都で、葬儀は行われた。市民はもちろん、高貴なその亡骸を目にすることはなかった。ただ棺の上には、王女の金髪と前王妃の形見であるネックレスが供えられていたという。
会ったこともない王女様だけれど、きっときれいな人だったのだろうなと思う。
一年の弔いを経て、その美しい髪は燃やされた。そして、その魂は天に還ったのだという。形見のネックレスを父王はとても大切にし、悼んでいるという話だ。
「そうかしら」
娘が、軽い声で言った。妙に清々しい顔で少女は笑う。
「意外ともう生まれ変わって、今はどこかで楽しく過ごしているのかもしれないわ」
さらりと、風が金色の髪を攫っていく。
その度に、甘い香りがする。この店で扱うどの果物よりも、かぐわしい香り。
陽の光に照らされて、彼女の髪はきらきらと輝いた。
「にしても、きれいな髪だな」
そっと髪を押さえて、少女がはにかむ。青い目を細めて、少し遠くを見るようにする。
「ええ。兄様がいつも梳いてくれるから」
その様があまりにも美しかったから、青年はしばし見惚れた。
危ない危ない。慌てて、りんごを入れた袋を渡す。
「では、またね。ありがとう」
代金を受け取る時に微かに指が触れ合うのさえ、小さなときめきを連れてくる。
「うん、また。リシェ」
リシェはひらりと手を振って、軽やかに歩いていった。
そういえば、彼女の兄は目と同じ黒い髪をしているらしい。妹は、金髪碧眼だというのに。
「本当に兄妹なのかな」
青年が呟くと、奥で果物の整理をしていた母がすぐそこにいた。
なんだか満足げな目で、リシェの背中を見送ったと思えば、果物がいっぱいに詰まった荷箱を置いていく。
「ほら、ぼさっとしてないですぐ並べな」
「ういー」
店先に果物を並べながら見れば、遠くにリシェの金髪が見えた。
迎えに来たのだろう。例の兄らしき黒髪の長身の男が隣に立っている。連れ立って歩く様は仲睦まじい限りだ。
「でも、似てないよなぁ」
母がやれやれと、呆れたようにため息を吐くのが聞こえた。
「あんた、野暮なこと言ってんじゃないよ」
* * *
大広間の真ん中に、少女が座っている。
ふっくらとした丸い頬。太陽の光を撚り合わせたような金色の髪。
齢たった七つ。それでも、彼女はこの場の全ての中心だ。
フェリシエンヌ殿下は、花のように華やかに笑っていた。
宝石、ぬいぐるみ、ドレス。
望めばなんだって、手に入る。
けれど、どうしてだろう。
時々ふっと、さざ波のようにその目が揺れる。まるで、自分がここにいていいのか思い悩むみたいに。
フェリシエンヌ殿下がこちらを向いた。
見つけたとばかりに、青い瞳が輝く。
「ねえ。ラウル。あなたは一体、何をくれるの?」
とっておきの宝物をねだるみたいに、彼女は言った。
「ぼくは……」
自分の手を見る。見習いになったばかりのぼくの手はまだ小さくて、何の役にも立たないことは明らかだった。
「クリストフ様はこんなに大きな金剛石をくださったのよ。つまらないものだったら、許さないわ」
金剛石も、王子の身分も、ぼくには何もない。
たったひとつ、この身を除いては。
だからそっと、彼女の手を取って膝を突く。
「フェリシエンヌ殿下」
ぼくの手よりももっと小さくてか細い、姫君の手。それを押し戴いて額に当てる。
「ぼくは、ぼく自身をあなた様に捧げます。どんな時も殿下のおそばにいて、必ずお守りするとお誓い申し上げます」
ゆっくりと顔を上げて、見つめ合った。
「そう」
青い瞳がぱちぱちと瞬きをする。
ぼくはその目の中に、星を見た。そしてそれに、魅入られた。
「ならばあなたは一生、わたしのものよ」
少し舌足らずな声が告げたのは、永遠の約束。
何も知らないお姫様の、無邪気な横暴。
それでも、頭の先から爪先まで電流が走ったかのようだった。
ただ一言、返事をするだけでいい。
そうすれば、ぼくはこの人とずっと一緒にいられるのだ。
それはとてつもなく甘美で、想像するだけで身の内が震えるようだった。
あなたがいるのなら、もう、何もいらない。
だからぼくはこう、答えた。
「喜んで」
互いを手に入れる話。
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また次のお話でお会いできれば嬉しいです。




