一人用のゲームを、兄と遊んだ
一 兄はいつも青いほうだった
兄は、ゲームが下手だった。
穴の前で跳ぶと穴に落ちる。右へ行こうと言えば左へ行く。僕が先に画面の端へ走ってしまうと、追いつけなくなって、笑いながら僕の頭を小突いた。
「待てって。お前、先に行きすぎ」
それが兄の口癖だった。
僕は三十五になり、兄は四十一になった。兄は今もゲームが下手だ。正確には、この二十年ほど、兄がゲームを操作しているところを見ていない。
僕の家へ来ると、兄は決まってソファの左側へ座る。
ひとつしかないコントローラーを渡そうとすると、首を振る。
「見てるから、やれよ」
途中で退屈した様子もなく、晩飯の時間まで見ている。
好きなのだと思っていた。
弟が遊んでいるのを、見ることが。
*
二〇二六年の五月、僕は小さな編集プロダクションから、休刊したゲーム雑誌の資料整理を請け負った。
発売されなかったソフトの紹介記事や、メーカーへの質問状を分類する仕事だった。編集部には紙の資料だけでなく、昔の掲示板を保存したファイルも残っていた。ネットの噂を取材の糸口にしていたらしい。
仕事の大半は、怖くなかった。
あるゲームの説明書だけ紙が黄色いのは、印刷所が変わったから。発売直前に主人公の姓が消えたのは、文字数を節約するため。起動すると毎回違う声がするというソフトには、実際に三種類の音声が用意されていた。
そうした説明のついた項目へ、僕は「確認済」と入力した。
最後に残ったもののひとつが、『夕凪探偵団』だった。
小学生が町の落とし物を探す、横から見た画面の冒険ゲーム。一九九六年発売。中古のカセットを母に買ってもらったのは、その翌年だった。
僕は赤い服の少年を動かした。兄は青い服だった。
団地の階段、公園の土管、夕方になると閉まる駄菓子屋。ゲームの町を、僕たちは何度も歩いた。
保存されていたスレッドには、こんなやり取りがあった。
【資料一/匿名掲示板「昔のゲームの妙な記憶」保存分】
118 2009/06/14 22:16
夕凪探偵団って二人でできたよな?
説明書の画像見たら一人用って書いてあるんだが
121 2009/06/14 22:20
それ二人目は仲間キャラ
自動でついてくる
126 2009/06/14 22:28
うち兄貴が青やってたぞ
最初の坂でしょっちゅう引っかかるやつ
129 2009/06/14 22:33
弟に使ってないコントローラー持たせるやつの逆だろ
いい兄貴じゃん
131 2009/06/14 22:41
そういうことか
なんか今さら悪かったな
僕はそこで少し笑った。
その晩、兄へ電話した。
「夕凪探偵団、覚えてる?」
「おう」
「あれ、一人用だったらしいよ」
兄は黙った。
電話の向こうで、食器を水に浸す音がした。
「そうだったかな」
「青いほう、自動で動くんだって。兄ちゃん、コントローラー繋いでなかった?」
「よく覚えてないな」
照れているのだと思った。
兄は子供の頃から、気を遣ったことを指摘されるのが嫌いだった。僕が欲しがった最後の唐揚げを譲るときも、必ず「腹いっぱい」と言った。
「優しい兄貴だったんだな」
そう言うと、兄は小さく息を吐いた。
「晃。それ、仕事で調べてんの」
「うん」
「ふうん」
また食器の音がした。
「昔のことって、間違って覚えてるからな」
会話はそこで終わった。
仕事用の表に「確認済」と入れようとして、僕は手を止めた。
兄が操作していた青い少年は、間違いなく穴へ落ちた。
僕を追いかけるのをやめて、画面の左端に立っていたこともあった。
自動で動く仲間にしては、あまりにも自由だった。
けれど、二十九年前のことだ。
確認済。
そう入力すると、表の黄色いセルが白くなった。
二 よくできた説明
翌週、資料の中から『夕凪探偵団』の攻略本が見つかった。
表紙の端をセロハンテープで補修してあった。本文のところどころに、赤鉛筆で丸がついている。読者からの問い合わせに備えて編集部で使っていた本だろう。
青い少年の名前は、ソウタ。
町の駄菓子屋の子で、主人公を手伝う仲間だった。
八ページ目に、僕の疑問の答えがあった。
ソウタは主人公の動きを少し遅れて真似する。主人公が助走をつけて渡れる穴でも、追いつく途中のソウタは落ちることがある。画面から外れたときは、次の場所へ移るまで待機する。
全部、説明がついた。
僕は兄へ攻略本の写真を送った。
〈兄ちゃんが下手だったわけじゃないらしい〉
既読になったが、返事は来なかった。
その日の午後、雑誌の元編集者を訪ねた。
吉岡さんという六十代の男性で、資料の一部はこの人の自宅から引き取ったものだった。食卓の上には、確認を頼んでいた書類がきれいに並んでいた。
「ゲームの怖い話って、たいてい説明できるんですよ」
吉岡さんは言った。
「同じ画面でも、遊んでいたときの状況が違う。熱があったとか、親に怒られたあとだったとか。そういうものが、あとからゲームの記憶に混ざるんです」
僕は二人用の話をした。
「それは仲のいいお兄さんだね」
吉岡さんは笑ってから、首を傾げた。
「ただ、その話、昔も取材した気がするな」
書類の束を何枚かめくり、茶封筒を抜き出した。
封筒には『夕凪・交代画面』とあった。
「そんな画面、ありましたっけ」
「あったんだよ。発売前の見本には。終わるときに、次の人の名前を入れる」
「対戦できないのに?」
「順番を決めるだけ。昔は一台を何人かで遊んだでしょう」
コピーされた画面写真が一枚入っていた。
丸い文字で、こう表示されている。
〈つぎに あそぶひとは いますか〉
〈はい〉
〈いいえ〉
僕はその文字を知っていた。
文字そのものではなく、出てくるときの音を。
三つの短い音のあと、少し間を置いて、もうひとつ。
思い出すと同時に、青いコントローラーの、手のひらに当たる部分のざらつきまで蘇った。
「製品版では削ったらしい。子供が自分の名前を入れないとか、いつまでも終わらないとか、いろいろあって」
「名前を入れない?」
「『ともだち』とか『おとうさん』とか。名前の欄だと思わないんだね」
僕は画面写真をスマートフォンで撮った。
吉岡さんが、何かを思い出したように言った。
「メーカーへ送った質問状もあるはず。二人用の件もそこに書いてあったよ」
帰りの電車で兄から返事が来た。
〈今度そっち行く。カセット、まだある?〉
三 写真の少ない子
カセットは実家の押入れにあった。
僕が大学を出てからも、母は子供のものをほとんど捨てなかった。ゲーム機の箱、片方だけの水泳用ゴーグル、図工で作った歪んだ写真立て。
「祐介も来るの?」
母が台所から聞いた。
「今日は来ない。カセット探してって頼まれた」
「じゃあ、お米持って帰ってって言っといて」
押入れの下段から、本体の箱を出した。
ケーブルがひどく丁寧に巻かれていた。
輪が崩れないよう、細い針金で留めてある。
兄の巻き方だった。今も電気工事の仕事をしている兄は、僕が充電器のケーブルを乱暴に丸めると黙って直す。
コントローラーは二つあった。
灰色のものと、青いもの。
片方の差込口だけ、金属が曇っていなかった。
僕はそれをしばらく見ていた。
本当に一度も繋がれていなかったのかもしれない。
箱の底に、八ミリビデオのテープが三本入っていた。母の字で『九五年・冬』などと書かれている。
再生機はもうなかったが、母によれば、十年ほど前に業者へ頼んでディスクにもしていた。
夕飯までのつもりで見始めた。
一九九五年のクリスマス。
僕は四歳で、赤いセーターを着ている。
覚えていた。
兄がケーキの苺を落とした日だ。
拾って食べようとして、母に止められた。僕はその隙に自分の苺を食べてしまい、兄に「ずるい」と言われた。
映像の中で、僕は苺を落とした。
母が「ああ、もう」と言って、画面の外からティッシュを差し出した。
ケーキの前には、僕一人しか座っていなかった。
テーブルの左側が切れていた。
兄はその向こうにいるのだと思った。
やがて母がカメラを動かし、部屋全体を映した。
畳。こたつ。ベランダに干したタオル。
テレビの前の、何もない場所。
兄はいなかった。
「兄ちゃん、この日どこにいた?」
台所の母に聞くと、すぐに返事があった。
「隣にいるでしょう」
「いないよ」
「え?」
母は濡れた手を拭きながら来た。
僕が映像を巻き戻すと、嬉しそうに目を細めた。
「ほら、ここで祐介が苺を落として」
僕が落とした。
母は黙った。
「……違うテープかしら」
次のテープを見た。
その次も見た。
覚えている遠足。覚えている運動会。兄に手を引かれて行ったはずの夏祭り。
映像の中の僕は、母の手を握っていた。
暗くなる前に、押入れからアルバムを全部出した。
兄は一九九七年八月の写真から現れた。
白いシャツで、僕の左側に立っていた。
背は僕より頭ひとつ高い。右の前歯だけ、少し内側を向いている。
兄だった。
それ以降の写真には、普通に写っている。
瞬きの途中の顔もある。母に肩を抱かれて、嫌そうに目を逸らしているものもある。
それより前には、一枚もなかった。
母が、古い大学ノートを持ってきた。
家計簿だった。
七月のページに、母自身の字でこうあった。
〈中古ゲーム 晃、一人でも遊べるもの〉
五日後。
〈祐介の茶碗、箸、サンダル〉
次の行。
〈何で今までなかった?〉
文字の上に二本線が引いてあった。
母はそこを指で隠した。
「兄ちゃんに聞く」
僕が言うと、母は首を振った。
「電話で変な聞き方しないで」
そして、僕の顔を見ずに言った。
「あの子、そういうの、自分が悪かったと思うから」
四 質問状の裏
兄には、カセットが見つかったことだけを伝えた。
仕事では別の資料を先に片づけようとしたが、うまくいかなかった。
一枚の写真を見ながら、写っていない人間の位置を考えていた。コーヒーを淹れると、兄が砂糖を入れないことを思い出した。それはいつ知ったことなのか。写真がある時期なのか。ない時期なのか。
僕は、兄に自転車を教わった。
兄は、僕のランドセルを一度だけ背負って、紐が短いと笑った。
僕が母の財布から金を盗んだとき、最初に気づいたのも兄だった。
ひとつひとつの記憶を、机の上へ出して点検したかった。
吉岡さんに連絡し、質問状を探してもらった。
翌日に届いた画像は、ファクスの控えだった。
【資料二/一九九七年七月付・編集部から発売元への照会】
一部の読者より、二人同時に操作できるとの情報が寄せられています。弊誌所有の製品では確認できませんでした。
また、交代する相手の名前を入力する画面について、製品版への収録の有無をご確認ください。
弊誌では現時点で、見本版と製品版の混同と考えております。
回答は二日後の日付だった。
本製品は一人用です。
二人目のコントローラーによる操作には対応しておりません。
交代相手の入力画面は、製品版では使用しません。
吉岡さんは、別に短いメッセージを添えていた。
〈裏にもメモがありました。私の字ではありません〉
僕は二枚目を開いた。
裏面には、ボールペンの走り書きがあった。
〈二人用かを聞いても意味がない〉
〈一人で遊んでいたかを聞くこと〉
〈途中から二人になった、と答えた人だけ残す〉
その下には、別の筆圧で、短く書き足されていた。
〈最初から二人だったと言い直す前に〉
*
メモを書いた人物は、小田切征夫という元プログラマーだった。
ソフトを開発した会社はすでになかったが、吉岡さんは個人的な連絡先を知っていた。事情を伝えると、小田切さんから一度だけ電話をしてきた。
兄の名前や年齢は、まだ話していなかった。
「交代する相手は、何て入力しましたか」
挨拶のあと、最初にそう聞かれた。
「覚えていません」
「では、誰と遊んだと思っていますか」
「兄です」
沈黙のあと、小田切さんは「そうですか」と言った。
「兄は今もいます。会えます。電話もできます」
「ええ」
「写真にも写ります。途中からは」
「ええ」
否定してほしかった。
「そういう相談は、ありました」
小田切さんは言った。
「ただ、私にも、お兄さんが何なのかは分かりません」
ゲームの交代画面は、元々は体験会のための機能だったという。
遊ぶ人が多く、一人の子がコントローラーを放さない。係員が時間を計る代わりに、ゲームの側で順番を知らせる。
使われたのは一度だけだった。
「子供から、変な苦情が来たんです。次の子に渡したのに、その子がいつまでも見ているだけだって」
「どういうことですか」
「係員の記録には、次の子がいなかったんです」
僕は膝の上に置いていた手を開いた。
指の先が冷たかった。
「それを作ったんですか」
「順番を知らせる機能は作りました」
小田切さんは、そこで一度言葉を切った。
「それ以上のものは、作ったつもりがありません」
発売前に画面を呼び出す処理を外した。少なくとも、外したことは確認した。
それでも製品版で、稀に表示された。
後から調べると、セーブデータの使っていない場所に、名前のような文字列が見つかることがあった。消しても次の起動で戻る。何も書かれていない製品もある。
「その部分は触らないでほしい、とだけ伝えました。正常か異常かを決められなかったので」
小田切さんの声は低かった。
「いまは古いゲームを調べて、使われなくなった画面まで動かす人がいるでしょう。あの交代画面については、やめたほうがいい」
「動かすと、どうなるんですか」
「分かりません」
少しして、紙をめくる音がした。
「ただ、その欄に、二つ目の名前が入ったものを見たことがあります」
五 兄の順番
カセットの中身を調べる作業は、すでに進んでいた。
前日の夕方、僕は資料保存を手伝っている知人の瀬尾に、本体と一緒に預けていた。
子供の頃の記録が残っているかもしれない。
それだけのつもりだった。
小田切さんとの電話を切り、瀬尾へかけた。
「触ってない?」
「何を」
「使ってないところ。セーブデータの」
「元のカセットは読むだけにしてるよ。戻せるように全部保存した」
少し安心した。
「例の交代画面、やっぱり残ってた。複製のほうで、そこを直接呼び出してみたんだ。今、別の機材で動かしてる」
僕は椅子から立った。
「止めて」
「もう動いてるけど」
「画面、何が出てる」
瀬尾が黙った。
電話の向こうで、三つの短い音が鳴った。
少し間を置いて、もうひとつ。
「晃」
瀬尾は僕の名前を呼んだ。
「これ、元の持ち主の名前?」
スマートフォンに画像が届いた。
〈つぎに あそぶひと〉
〈にいちゃん〉
その下に、二行目があった。
〈そのつぎ〉
〈かずま〉
僕はその名前を知らなかった。
「そのまま何も選ばないで。今行くから」
電話を切ると、着信が入った。
兄だった。
「どこにいる」
声を聞いた瞬間、僕は泣きそうになった。
「兄ちゃん」
「家か」
「仕事場。これから、カセット預けた人のところに」
「場所を送れ」
兄の声は、普段と変わらなかった。
僕が原付で転んだときも、こんな声だった。怒るのは後回しにして、歩けるか、血は出ているか、それだけを聞いた。
「かずまって、誰」
電話口で、兄の息が止まった。
「表示されたのか」
「うん」
「何か答えた?」
「何に」
「画面の質問に」
「いや。僕は、写真を送ってもらっただけ」
兄は大きく息を吐いた。
「分かった。先に着いても、何も答えるな」
*
瀬尾の仕事場は、駅前の雑居ビルの三階にあった。
僕が着いたとき、兄は階段を上がってくるところだった。作業着の胸ポケットに、短い鉛筆が二本差してある。白髪が一本、こめかみから飛び出していた。
どう見ても、兄だった。
怪物の形を想像しながら来た自分が、ひどく恥ずかしくなった。
「晃」
兄は僕を見た。
何か言おうとしたが、やめた。
瀬尾は、机から少し離れた場所に立っていた。
モニターにはさっきの画面が出ていた。
コントローラーは、誰も触っていなかった。
「ずっと待たせてたら、こうなった」
瀬尾が指さした。
〈じゅんばんを かわりますか〉
〈はい〉
〈いいえ〉
画面の下端に、靴が見えた。
絵だった。
小さな、白い運動靴が二つ。
文字を表示するための黒い帯の下に、本来そこにはないはずの足先だけが収まっていた。
左の靴が、わずかに動いた。
僕は反射的に兄を見た。
兄はモニターを見ていなかった。
モニターの左にある、空の椅子を見ていた。
「コンセント、どれですか」
兄が聞いた。
「動かしてる機材はこれ。元データは別にあるから、落としても――」
瀬尾が言い終わる前に、兄は電源を切った。
画面が暗くなった。
何も起きなかった。
ビルの外をバイクが走っていった。
瀬尾の机で、冷めたコーヒーの表面が小さく揺れていた。
僕は息を吸った。
そのとき、左隣で誰かが言った。
「まだ?」
子供の声だった。
音のしたほうへ顔を向ける途中で、兄に肩を掴まれた。
「帰るぞ」
強い力だった。
兄が瀬尾に何かを頼んだ。僕には聞き取れなかった。
瀬尾はうなずき、元のカセットを布の袋へ入れた。
部屋を出る直前、僕は一度だけ振り返った。
空の椅子は、机の下にきちんと収まっていた。
その前の床に、小さな泥の塊が落ちていた。
靴底の模様がついていた。
六 いなかった日のこと
兄の車で、実家へ行った。
途中、兄は一度だけ道を間違えた。
小学校の裏へ曲がりかけて、ウインカーを戻した。昔の団地へ続いていた道だ。今の実家へは、駅の手前で右に曲がる。
「癖でさ」
兄はそう言った。
助手席から見る横顔には、目尻の皺があった。
僕の知っている時間が、ちゃんと刻まれていた。
「いつから知ってたの」
兄は前を向いたまま答えた。
「高校のとき」
「何を」
「小さい頃の写真が、一枚もないこと」
高校で、自分の成長をまとめる課題が出たという。
兄は小学校に入る前の写真を探した。見つからなかった。
「母さんに聞いたら、引っ越しのときに捨てたんじゃないかって。最初は、そういうもんかと思った」
けれど、僕の写真は残っていた。
兄が撮ったと覚えている写真もあった。
写真の端の鏡には、カメラを構えた母が写っていた。
「ずっと見てるとさ、両方思い出すんだよ」
赤信号で、兄は車を止めた。
「自分が撮ったときのことと、母さんが撮るのを、いないところで見てたような感じと」
「いないところ?」
兄は答えなかった。
青になると、車を出した。
「今日、あの名前が出てたって聞いて、昔のを思い出した」
「かずま?」
兄の手が、ハンドルを握り直した。
「俺の後ろにいた」
車内が急に狭く感じた。
「どこで」
「待ってたとき」
「何を」
兄は、困ったように僕を見た。
「順番」
*
母は食卓に皿を三枚並べていた。
「来ると思ってた」
そう言って、炊飯器を開けた。
誰もすぐには話をしなかった。
兄は流しで手を洗い、濡れたところを拭いてから椅子に座った。母は味噌汁をよそった。僕は二人の箸の置き方を見ていた。
兄の箸には、右手で持つ側の先に小さな欠けがある。
何年も前から、そこにある欠けだ。
「俺、本当は、いなかったんだな」
兄が言った。
母は鍋の蓋を置いた。
「途中までね」
僕は母を見た。
母は兄のほうを見ていた。
「ずっと分かってたの?」
「ずっとじゃない」
母は座り、膝の上で手を重ねた。
「あんたたちが小さい頃は、忙しかったから。考えてる暇がなかったし、考え始めても、すぐ忘れた。おかしいと思ったことのほうをね」
兄の上履きを洗った記憶がある。
でも、靴箱には僕のものしかなかった。
兄の茶碗を割った記憶がある。
でも、最初の一つを買ったのは、兄が十二歳になってからだった。
「あのノートの字、私の字でしょう。私が、忘れないうちに書いたんだと思う」
母はそう言った。
「怖くなかった?」
聞いたのは僕だった。
「怖かったよ」
母はすぐに答えた。
兄は黙ってうつむいた。
「でも、朝起きたらお腹を空かせてるの。あんたと同じように。足にまめを作って帰ってくるし、熱を出すし」
母は兄の前へ、味噌汁を少し寄せた。
「毎日見てたのは、そっちだったから」
兄は顔を上げなかった。
僕は、一九九七年のことを思い出そうとした。
六歳。
団地の二階。
夏休み。
母は仕事に出ていて、僕は一人でゲームをしていた。
そう思った瞬間、別の記憶が、重なるように出てきた。
兄と二人でゲームをしていた。
二つの記憶は同じくらい鮮明だった。
同じ場所で扇風機が回り、同じ場所に麦茶のコップがあった。
違うのは、左隣だけだった。
交代画面が出た。
〈つぎに あそぶひとは いますか〉
僕は〈はい〉を選んだ。
名前を入れる画面になった。
一人では先へ進めないのだと思った。
ソウタ、と入れようとして、やめた。
青い服の少年は、穴に落ちる。駄菓子屋で買い物をすると、外へ出るまで待っていてくれる。いつも少し遅れて、追いかけてくる。
僕より大きい子だったら、道を知っているかもしれない。
そう考えたことを、思い出した。
〈にいちゃん〉
文字をひとつずつ選んだ。
画面には、続きを促す言葉が出た。
〈となりのひとに きいてね〉
僕は、左を向いた。
ここから先の記憶は、ひとつしかなかった。
兄がいた。
僕は青いコントローラーを渡した。
兄はそれを受け取って、少し持ち替えた。
初めて見る物の、持ち方を探すように。
「覚えてる?」
僕は聞いた。
兄はうなずいた。
「お前、待ってくれなかった」
兄は少しだけ笑った。
「俺がどうやって持つんだろうって考えてる間に、もう先に行ってた」
僕は泣いた。
怖かった。
懐かしかった。
その二つを、どうしても分けられなかった。
七 確認できなかったこと
翌日、瀬尾から連絡があった。
あのあと機材を起動していない。検証を再開するつもりもない。そうした内容の短い連絡だった。
元の記録と作業した複製を分け、何をしたかだけ書き残してほしいと頼んだ。
瀬尾は了解したあと、ひとつだけ質問してきた。
〈来たとき、もう一人いた?〉
僕はしばらく画面を見た。
〈僕と兄の二人〉
送ると、すぐに返事が来た。
〈そうだよな。椅子をもう一脚出した気がして〉
僕はその連絡を保存した。
小田切さんにも、起きたことを伝えた。
電源を切ったあと、声が聞こえたこと。
椅子の前に泥が落ちていたこと。
小田切さんは、長いこと黙っていた。
「ゲームを止めれば大丈夫なんでしょうか」
僕は聞いた。
「そうだったら、今、お兄さんはいませんよね」
それは警告するような言い方ではなかった。
疲れた人が、答えを持っていないことを認める声だった。
「ただ、続きを確かめる理由はないと思います」
僕もそう思った。
兄は二十九年間、僕の兄だった。
そこに、間違いはなかった。
夜中に迎えに来てくれたことも、失業したときに飯を奢ってくれたことも、母の手術のあとに台所の高い棚を外してくれたことも、僕一人が思い出している出来事ではなかった。
写真があった。
ほかの人が覚えていた。
棚を外した穴は、まだ壁に残っていた。
兄がいなかった時期がある。
それと、兄がいることは、両方とも本当だった。
*
編集プロダクションには、件の項目を記事にしないよう頼んだ。
担当者は「確認が取れていないからですね」と言った。
僕は、はい、と答えた。
そのあとで、表を開いた。
白くしたセルを、もう一度黄色へ戻した。
保存してあったスレッドを読み直すと、最初は気に留めなかった書き込みがあった。
【資料一・続き】
137 2009/06/14 23:03
二人用じゃないのは分かったけど
親戚の子がうちでこれやったとき
帰りに三人分のジュース持たせようとしたんだよ
来たの二人だったのに
139 2009/06/14 23:07
自分の分じゃね
143 2009/06/14 23:15
そうかもしれん
もう昔のことだしな
兄の話で納得したときと、同じ順番だった。
おかしなことがある。
誰かが説明する。
説明のほうを覚える。
残しておく必要のなくなった違和感から、順に消えていく。
僕は、この二人が親戚だったのか、それとも友達だったのか、聞いてみたいと思った。
もちろん、聞ける相手はもう分からなかった。
八 見てるから、やれよ
七月、兄が僕の部屋へ来た。
網戸が外れると言ったのを覚えていて、仕事帰りに工具を持って寄ったのだった。
修理は十分ほどで終わった。
兄は手を洗い、ソファの左側へ座った。
僕は缶ビールを渡した。
「ゲーム、やらないの」
兄が聞いた。
僕はテレビの下を見た。
あのカセットは、実家の箱に戻してあった。
目の前にあるのは、何年もあとに買った別のゲーム機だった。
「最近やってない」
「そうか」
兄はビールの缶を両手で持った。
指の関節に、細かい傷がいくつもあった。
爪の脇には、洗っても落ちない黒い汚れが残っていた。
「兄ちゃん」
「うん」
「今も、待ってるの」
兄はテレビを見た。
画面は消えていた。
「お前、まだゲーム好きだろ」
答えになっていなかった。
でも、それ以上聞くと、何かに返事をしなければいけなくなる気がした。
僕は新しいレースゲームを起動した。
対戦用のコントローラーもあった。どちらも、正常に繋がっていることを知っていた。
それでも僕は、ひとつだけを手に取った。
「やっていい?」
兄はうなずいた。
「見てるから、やれよ」
僕は最初のカーブを曲がり損ね、ガードレールにぶつかった。
兄が笑った。
後ろから来た車が、僕を追い抜いていった。
もう一度コースへ戻ると、兄は画面を指さした。
「次、左だぞ」
*
ここまで書いたあと、母から音声ファイルが届いた。
家族の映像を調べた際、写真以外にも古い記録があったら見せてほしいと頼んでいた。その続きを送ってくれたのだった。
母は昔、家の留守番電話に入った用件のうち、すぐ消したくないものを別に録音していた。祖母の声や、兄が出先から連絡してきたものだ。それを、古いパソコンのフォルダに残してあった。
〈祐介、米のお礼。懐かしいね〉
二〇一一年のファイルだった。
兄が初めて一人暮らしをした頃だ。
母は米と、作り置きのおかずを届けた。
僕は、台所でその音声を再生した。
短い雑音のあと、今より少し高い兄の声がした。
「あ、俺。米ありがとう。容器は洗って返すから。晃にも、今度飯食いに来いって言っといて」
そこで少し間があった。
兄は電話を切ったつもりだったのだろう。
受話器が何かに触れた音がして、そのあとも録音は続いていた。
遠くで、椅子を引く音がした。
兄が言った。
「まだだよ。弟と遊んでるから」
僕は再生を止めた。
二〇一一年。
兄は二十六で、僕は二十歳だった。
その年、僕が兄の部屋へ行ったのは、引っ越しを手伝った一度だけだ。母が米を届けた日、僕はそこにいなかった。
もう一度、再生した。
兄の声のあと、誰かが返事をしていた。
「うん」
すぐ近くで、子供が答えた。
「うん」
少し遠くで、別の子供が答えた。
もっと奥にも、声があった。
兄の小さな部屋には収まらない遠さから、返事が続いていた。
僕は止めようとして、画面の上に指を置いた。
返事が途切れた。
最後に、一人が聞いた。
「弟が終わったら、いいんだよね」




