「戦犯」って言葉、いったいどういう意図で使ってるの?
サッカーW杯。
日本代表が、ブラジル代表を相手に1-2で惜敗した。
今回のブラジル代表のメンツが小粒だったとはいえ、実力差よりも競ったゲームを見せ、大健闘と言える出来。日本代表も多くの主力を欠く中で、面目を保つ戦いを見せた。
しかし、それでも一定数「戦犯」という言葉を使う下品な連中がいる。今回は田中碧であったり、指揮官の森保であったり。田中に関しては、誰でも犯し得るミスで、誰がハズレを引くかのロシアンルーレットでのミス。個人を責めるような類いのものではない。また森保にしても「手駒」で考えれば、最善手に近い采配で、アンチェロッティの戦術が当たったからと言って、森保の打ち回しを批判するのも、どこかズレている。手駒が逆で試合をした場合、アンチェロッティが、森保率いるブラジル代表を敗れたかも疑問なのだから。
―― という話は、あまり意味を成さない。
なぜなら批判の大半は、その競技であったり、状況の意味を深く知らない(知ろうともしない)者たちによって発せられている暴言でしかないからだ。ディテールの指摘であるならまだしも、感情論のように「戦犯」という言葉を持ち出す人間に、まともな思考を求めるだけ徒労である。
漠然とした強い言葉には、何の意味もない。
自分でも説得力がないことを無意識に理解した上で、強い言葉を発しているのが、彼らの本質だからだ。逆に興味が湧くのは、彼らはなぜ「大して興味もないこと」に、それだけ大きな態度が取れるのか?という点。
これに対する気付きには、時間がかかった。だが、最近ようやくその答えのようなものが見えてきた気がする。彼らが声を荒げるのは、本当に怒っているからではなく、常に過小評価される自分の意見に対し、大きな言葉で「他人を注目させたい」という裏の感情が働いているのではないのか、ということに。
大きな言葉を放ち、注目を得ることにより、日頃の孤独を解消したいのかもしれない。しかし、この「歪んだ感情」に同調するのは、同様に歪んだ孤独を抱える者たちだけで、そんな者たちからの同調(=エコーチェンバー効果)にいったい何の意味があるというのか?
ネガティヴな話題での盛り上がりは、外から見る者たちにとっては「毒物の醸成工場」でしかなく、より自分たちのコミュニティの孤独度を高める「悪趣味な祭り」としかならない(芸能ゴシップ祭りなどもこれ)。もう後戻りできないところにまで来てしまったからから、それでも踊り続けているという中高年も多いのかもしれない。しかし、それに少しでも気付いたのであれば、そこでその悪癖はやめるべきである。死を迎える最期の瞬間、振り返り、自分の人生の虚しさに涙を流さなくても済むよう、早めのデトックスをすすめたいところ。
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本当にサッカーが好きで、感情的に「戦犯」という言葉を使っているのだとすれば、もっと気をつけた方がいい。それは貴方自身が「チームスポーツ」に参加する資格のない人格であるという裏の主張にしかならないのだから、怒りのコントロールを覚える必要があるだろう。
「お前のせいで負けた」を主張する人間は、個人競技だけを楽しんでいればいい。厳密には個人競技にも「チーム」は存在するわけであるが。




