中世の中央アジア キャラバンサライ(隊商宿)の風景
16~18世紀ごろの中央アジア、ブハラ・ハン国やコーカンド・ハン国周辺(現在のウズベキスタンやタジキスタン、キルギス周辺)を想定した、どこにでもありそうな、いち隊商宿の風景を描いてみました。
【ナジャル〈キャラバンサライ(隊商宿)店主〉】
夜明け前から、ナジャルは起きていた。
ファジュルの礼拝を終えて中庭に出ると、空がちょうど白み始めている。チルチク川からの風がまだ冷たい。
昨日の夕方、街道を歩いてきた農民が「砂煙が見えた」と教えてくれた。砂煙の規模からして、中程度のキャラバンだろうと踏んでいた。そしてその感覚は今朝、確信に変わった。ラクダの鈴の音が、遠くから聞こえてきたのだ。
ラシードだ。
音の間隔と数から、ナジャルにはわかった。あの男のキャラバンは鈴の結び方が独特で、少し間延びした音がする。10年以上聞いていれば、音で人がわかるようになる。
「アリ!」
番頭のアリはすでに門のそばにいた。この男も気配を察していたのだ。
「水を増やせ。ラクダが30頭は来る。飼料も出しておけ。」
アリは無言でうなずき、すでに動き始めていた。
ナジャルは台所に顔を出した。ファティマがナンの生地を伸ばしながら、目も合わせずに言った。
「白湯は今から沸かします。シュルパは昼には出せるわ。今夜は何人?」
「ラシードと、副隊長格が3人か4人。父上も呼ぶ。」
「ならば羊を一頭。アリさんに購入してきてもらって捌かせておきます。」
妻はすでに今夜の献立を決めていた。ナジャルは何も言わずに表に戻った。
使用人にも声をかける。
「井戸から冷たい水を汲んでおけ。あと、ラクダ用の水槽にもたっぷり水を流しておけ。」
門を開けると、先頭の護衛の馬が見えた。
ラシードは隊列の中ほどにいる。馬ではなくラクダに乗っていた。疲れているときはラクダに乗る。馬より揺れが少ないから。それを知っているのも、長い付き合いのおかげだ。
「ナジャル!」
ラシードが声をかけてきた。砂埃で顔が茶色くなっているが、目は元気だ。
「よく来た。水は用意してある。ラクダを先に入れろ。」
儀礼的な挨拶より先に実務を言う。これがこの二人の流儀だ。
ラクダが次々と門をくぐる。アリが手際よく繋ぎ場に誘導する。荷が下ろされ始めると、ナジャルは荷の大きさ・形・布の色を素早く見た。
絹の反物が多い。陶磁器もある。小さな革袋が几帳面に積まれているのは……。今回は良い荷だ。
「お前が来るのを待っていた」とナジャルは言った。「バザールで布地商のハムザが新しい商売を始めた。お前の絹に興味があるはずだ。」
ラシードが片眉を上げた。「値は?」
「それは今日の夜、飯を食いながら話そう。」
ラシードは笑った。砂埃の中で白い歯が光った。
水やチャイを出すのはナジャルの役目だ。
到着したキャラバンの者たちが中庭に腰を下ろし、汲んだばっかりの冷たい水を受け取る。ナジャルはラシードの隣に座り、手短に近況を交換する。
「道中は?」
「コーカンドあたりで砂嵐があって一日足止めを食った。それだけだ。カザフの遊牧民の連中が出張ってきて、手前で交渉が要ったが、問題はない。」
「誰の縄張りだった?」
「バイルの息子のグループだ。去年より強気になっている。通行料が上がった。」
ナジャルはその情報を頭に刻んだ。この地の商人たちが北のルートに荷を出すとき、伝えてやれる情報だ。情報はこうして積み重なっていく。
ラシードが低い声で続けた。「サマルカンドの絹市場はどうだ。飽和しているか?」
「去年の秋に比べればまだ余裕がある。ただし白絹は供給過多だ。今は売らないほうが良い。なんならあずかってやる。色物を持っているなら急いだほうがいい。」
ラシードは何も言わずにうなずいた。二人の間で、今夜の話の輪郭がすでに決まっていた。
【ラシード〈キャラバン隊 隊長〉】
バザールの喧騒は、どこに行っても同じ匂いがする。
香辛料と家畜と人間の汗。それに今日は、川から来る湿った風が混じっていた。この街の特徴だ。内陸のカラカラに乾いた空気に慣れた体には、湿り気が心地よい。長旅の疲れが少しほぐれる気がした。ここに寄り道する理由はそれだけでも十分だ、とラシードはいつも思う。
ハサンが隣を歩きながら言った。「布地の列から当たりますか。」
「ああ。ただし急ぐな。一周してから値を聞け。」
最初の店で値を聞いてはいけない。それは旅商人の鉄則だ。一周して相場を把握してから戻る。焦りを見せた瞬間に足元を見られる。
このバザールは小さい。布地商が5軒、香辛料商が3軒、金属器が2軒、あとは食料品と日用品。サマルカンドの百分の一の規模だ。それでも、ここには来る価値がある。
理由は三つ。水。休息。そして、ナジャルとの関係だ。
ブハラやサマルカンドの大バザールは情報が速い。何百人もの商人が毎日情報を持ち込み、持ち出す。価格はすぐに均衡する。儲けは薄い。
しかしこういった地方小都市のバザールは、情報が遅い。ブハラやサマルカンドで何が起きているか、どの商品が値上がりしているか、まだ知らない商人たちがいる。ラシードはその差を利用する。
こちらが持っているのは色物の絹が中心だ。売り時だ。
布地商のハムザは、ナジャルが言っていた通りの男だった。
50代。目が鋭い。反物を手で触っただけで産地がわかる、という評判の男だ。ラシードが荷の説明を始める前に、ハムザは黙って布を手に取った。
指の腹で何度も撫でる。光にかざす。少し引っ張る。
「中国産か。」
「そうだ。」
「何ヶ月前の荷だ。」
「1ヶ月。フェルガナで仕入れた。」
ハムザはしばらく黙った。ラシードも黙った。沈黙を先に破った方が負けだ。
「・・・」
「赤と青は何反ある。」
「赤が8、青が6。」
「白は?」
「白は今回は少ない。」
ハムザの目が少し動いた。白が少ないことに何かを読んだのだ。
この男は鋭い。ブハラの情報をすでに持っているかもしれない。
交渉は1時間続いた。最終的な値はラシードが想定していた下限より少し高くまとまった。上出来だ。
午後になって、マフムードが戻ってきた。若い男は額に汗をかいていたが、顔が明るかった。
「乾燥果物、全部はけました。香辛料商に一括で。」
「値は?」
マフムードが告げた数字を、ラシードは頭の中で計算した。
悪くない。むしろ良い。この若い男は最近、交渉が上手くなってきた。3年前にキャラバンに加わったときは、言い値で買いたたかれてばかりいた。人は育つものだ、とラシードは思った。
「よくやった。今夜、ナジャルの家で飯が出る。お前も来い。」
マフムードの顔がぱっと明るくなった。前回の滞在では、彼はまだ中庭組だった。主人の家の夕食に呼ばれるのは初めてだ。
そろそろ、こいつを副隊長格として扱う時期かもしれない。
【ユスフ〈キャラバンサライ(隊商宿)店主の息子〉】
マドラサからサライに戻ったのは、アスルの礼拝が終わった直後だった。
門をくぐった瞬間、中庭の空気が違うとわかった。いつもより人が多い。ラクダの声。道具を運ぶ足音。アリが忙しそうに動き回っている。
キャラバンが来ている。
ユスフは荷物を部屋に置く間も惜しんで中庭に出た。
ラクダが20頭以上、繋ぎ場に並んでいる。疲れた様子だが、毛並みが良い。よく管理されているキャラバンだ。荷はすでに全部下ろされて、回廊の倉庫に収められていた。手際が良い。
「ラシードさんのキャラバンだ」
アリが通りすがりに言った。それだけ言えばわかる、という口調だった。
ユスフは思い出した。去年の秋に来た、あのキャラバンだ。隊長のラシードは父と長い話をしていた。副隊長のハサンは交渉が上手くて、バザールで地元の商人を手玉に取っていた。そしてあの若い商人――マフムードとかいう名前だったか――は自分と同じくらいの年で、旅先の話をしてくれた。
台所に顔を出すと、母のファティマが煙の中で立っていた。
「ユスフ、羊はもう捌いてある。水を汲んできて。あと、薪を足して。火が弱い。」
「今夜は何人来るの?」
「ラシードさんと、3人か4人。それからおじいちゃんも。」
母は手を止めずに答えた。「お前も同席しなさい。父さんがそう言っていた。」
ユスフは少し背筋が伸びる感覚がした。去年の秋はまだ子ども扱いで、中庭で使用人たちと食べた。今年は同席できる。
「マフムードさんも来る?」
「若い人が一人来ると聞いた。名前まで知らない。」
ユスフは薪を足しながら、今夜の段取りを頭の中で組み立てた。父がラシードと話す。自分はどのくらい話していいのか。どういう話題を出すべきか。余計なことを言ってはいけない。でも黙りすぎてもいけない。
日が沈む少し前、ナジャルがユスフを呼んだ。
「客を裏庭に案内しろ。ラシードさんとハサンさんと、もう一人若い男が来る。」
「マフムードさん、ですか。」
父が少し目を細めた。
「知っているのか。」
「去年、少し話しました。」
父は何も言わなかったが、ユスフには父が何を考えているか少しわかった。息子が旅商人と顔つなぎをしている。それは良いことだ。
三人が門から入ってくるのを、ユスフは迎えた。
ラシードは大きな男だった。背が高く、日焼けして、砂漠の風に削られたような顔をしている。ユスフに目をやって、にっと笑った。
「大きくなったな。去年よりずいぶん背が伸びた。」
「ありがとうございます。」
ハサンは愛想よく周りを見回した。
「いい中庭だ。ブドウの木が大きくなっている。」
最後にマフムードが入ってきた。ユスフを見て、一瞬驚いたような顔をした。
「……去年の?」
「はい。ユスフです。」
「マフムードだ。覚えていてくれたか。」マフムードは少し嬉しそうに言った。
裏庭の中央に、ダストルハンが広げられていた。
絨毯の上に大きな布を敷き、その上に料理が並んでいる。焼きたてのナン。レーズンとクルミを混ぜたサラダ。チャイのポット。
奥の部屋から、ボボジョン――ユスフの祖父――が出てきた。ゆっくりとした足取りだが、背筋は真っ直ぐだ。
ラシードが立ち上がって深く礼をした。
「ボボジョン、お元気そうで。」
「ラシード、また来たか。お前の顔を見るのが楽しみでな。」
老人は笑った。目が細くなって、顔中に皺が寄る。
全員が座った。男だけの輪。ユスフは端に座った。父の斜め後ろ、少し引いた位置だ。聞くのが自分の役目だと理解している。
最初にチャイが出た。ファティマがザイナブに運ばせたのだ。ザイナブはちらりとも顔を上げずに素早く置いて引っ込んだ。
「水が良い街だ」とラシードが言った。
「水の味が違う。」
「川が近い」とナジャルが答えた。
「この街の一番の財産だ。」
「川が近いし、その豊富な水が流れている水路や井戸があるのも大きい。」
「この都市がもっと小さいころに、この土地を確保したうちのひいひい爺さんのおかげだ。」
このサライには、街の中では上流のほうにあり、比較的濁っていない水がアリクに流れている。一晩で考えられないほどの水を飲むラクダを考えると、大量の水はサライには必須だ。この場所を得ることができた、自分にとってはひいひいひいお爺さんになるのかな、初代の先見の明は本当に凄いんだ。
「だから俺はここに寄る。サマルカンドまで急ごうと思えば急げるが、ここで一息つかないと体が言うことを聞かなくなる。」
ボボジョンが口を開いた。
「わしが若い頃、一度だけカシュガルまで行ったことがある。」
全員が老人の方を向いた。ユスフはこの話を何度か聞いたことがあるが、ラシードたちは知らない。
「どのくらいかかりましたか」とマフムードが聞いた。礼儀正しい声だった。
「今よりずっとかかった。道中で二人が病で亡くなった。」
ボボジョンは静かに言った。
「だがカシュガルの市場で初めて中国の絹を見たとき、この世にこんな美しいものがあるのかと思った。」
しばらく誰も話さなかった。
シュルパが来た。ザイナブが大きな鉢を両手で持って、また目を伏せて置いた。羊の骨から取った出汁に、ニンジン・玉ねぎ・カブが入っている。湯気が上がって、羊脂の香りが夜の庭に広がった。
ラシードが一口飲んで目を閉じた。
「この味だ。3ヶ月ぶりだ。道中の飯は自分たちで作るしかないが、こういう料理はやはり違う。」
「ファティマの料理は街で一番だ。バザールのどこのチャイハナよりも料理上手だ」とナジャルが言った。自慢ではなく、事実を述べるような口調で。
食べながら、話が動いた。
ラシードが低い声で言った。
「ブハラの状況を聞かせてくれ。絹の市場はどうだ。」
「白は厳しい。色物はまだいける。ただし藍染めが最近増えている。インド方面からの荷が多い。」
「ホータンの色物を持っている。赤と青だ。」
「赤は問題ない。青は……少し読みにくい。急いで売った方がいいかもしれない。」
「わかった。色物は一部を除いで近く売ってしまおう。次に来る時までに白は預かってくれるか?」
「いいだろう。たっぷり倉庫代をもらってやろう。」
「おいおい、お手柔らかに頼むよ。」
ラシードが大きく笑った。
そんな話をユスフは黙って聞いていた。
父が情報を出している。ラシードも情報を出している。
どちらも全部は明かさない。手の内の半分だけを出して、相手の反応を見る。
また、それを生かしてさらに再度このサライを訪れるところまで確約させてしまった。
これが一人前の商人だ、とユスフは思った。
プロフが来たのは夜も深まってからだ。
大きな皿のまま運ばれてきた。ファティマとザイナブが、裏の台所から二人がかりで運んだのだ。表には出てこない。置いたらすぐに引っ込む。
白い米に黄色いニンジン。羊肉の塊。ヒヨコ豆。干しブドウが散らしてある。
大皿を囲んで、手で食べる。これが本来の食べ方だ。
ラシードが笑いながら言った。
「この干しブドウ、フェルガナのものか?」
「フェルガナのより甘い。」
他愛のない話が続いた。商売の話はひとまず置かれた。腹が満たされると、人は素の顔になる。ラシードが道中の話をした。チムケント手前で見た夕日の話。
ボボジョンが昔の旅の話をした。ハサンが笑いながら、交渉で失敗した話をした。
マフムードがユスフに小声で言った。
「お前、マドラサに通っているんだろう。何を習っている?」
「クルアーン。算術。ペルシャ語の文章も少し。けど、今日はいないけど一緒に通っているアルククに算術は最近負けているから今必死になってるんだ。」
「算術か。俺も覚えておけば良かった。計算が遅くて、よく損をする。」
ユスフは少し笑った。
「でも、今日のバザールはうまくいったんですよね。」
マフムードが目を丸くした。
「なんで知っている?」
「顔を見たらわかります。うまくいった人の顔は、疲れているのに明るい。」
マフムードは少し黙ってから、笑った。
「お前、見どころがある。学問もいいが、人を見る目を養え。」
夜が深くなった。
ラシードとナジャルの声が低くなっていた。二人だけに聞こえるような声で、何かを話している。ユスフは聞こうとしなかった。聞いてはいけない話がある、ということも、父の背中から学んでいた。
ボボジョンがいつの間にか眠っていた。背もたれに寄りかかって、穏やかな顔で。
マフムードが空を見上げた。「星が多いな。」
「川の近くだから空気が違う」
とユスフは答えた。
「乾いた夜とは違う。」
「サマルカンドの星はもっと多い。砂漠の空は乾いていて、吸い込まれそうになる。」
マフムードは言った。
「でも俺はこういう夜の方が好きだ。湿っていて、草の匂いがして。」
ユスフは答えなかった。ただ同じように空を見た。
チルチク川の水音が、遠くから聞こえた。
客が帰った後、ユスフは父と二人で後片付けをした。
ナジャルは何も言わなかった。ただ、片付けが終わった後、息子の肩に一度だけ手を置いた。
それだけで、ユスフには十分だった。
はつとうこう。(テスト投稿なのでAIでの補助多め。)




