031話 残響のレクイエム(前)
◇ノヴァン・ド・オルドー視点
その日は、あまりに静かな朝だった。
アベイ・ド・フォンヴローに差し込む光はこれから冬になると言うのに、まるで春の訪れを告げるかのように穏やかで、私はまだ、サニーに笑いかける夢の余韻の中にいた。
だが、その静寂は、鉄錆の匂いと絶叫によって無残に引き裂かれた。
「閣下! アベイが多数の兵らに包囲されています!」
飛び込んできた侍従たちに、私の心臓が嫌な跳ね方をした。
「いったい誰だ、その無粋な輩はッ?」
「リヴァース領イリアス・リヴァース卿!」
イリアスが? あの実直な騎士が?
混乱が思考を塗り潰そうとする。叫び出したい衝動を必死に飲み込んだ。ここで私が取り乱せば、ここにいる者たちの心は一秒も持たない。私は震える膝を叩き、傍らに置いた細剣を手に取った。
「そうか……是非もないな。まずは非戦闘員を裏口から逃がせ。応戦の指揮は私が執る」
鏡の中の自分を見る。サニーが「似合う」と言ってくれた、オルドー家当主としての青い礼装。それを見詰め、背筋を伸ばした。
王宮にいるアレクシス王へ救援を求める急使を出しながら、自嘲の笑いを漏らす。
「……ま、あやつが助けに来るとは思えないがな」
手続きだ。これは王の忠実な臣下たる私の、せめてもの嫌味に近い手続きに過ぎない。
西の空を眺める。あの方向には私の本当の仲間がいる。
サニー、すまない。どうやら、君のいない間にしくじってしまったようだ。
◆◆
戦闘は、凄惨という言葉すら生ぬるいものだった。護衛らは少数ながらも勇猛だった。だが、押し寄せるイリアスの正規軍は最新の装備と圧倒的な数でアベイを蹂躙した。
目の前で、昨日まで言葉を交わしていた騎士が物言わぬ骸に変わっていく。肉を断つ嫌な感触。血の飛沫。潮時だ。これ以上、道連れを増やす必要はない。
「――全員、剣を引け!」
私は自らの剣を石床に放り投げた。乾いた金属音が終わりの合図のように響く。
「私の過ちだ。君らを窮地に追い込んだことを許してほしい。……だが、この土壇場で繋いでくれた命こそが次への希望だ。皆の忠義に礼を言う。……大義だった」
跪いた私を、生き残った連中が震えだす瞳で見つめていた。その無垢な忠誠心は、時にどんな刃よりも深く胸に刺さる。……この者たちの命を背負って立つには、私という人間の芯はまだあまりに細く、頼りなすぎる。
◆◆
引き立てられた私の前に、イリアス・リヴァースが立った。かつて澄んでいた少年の瞳は、今は底の見えない深淵のように濁っている。
「――紅蓮の静寂。僕を恨みますか?」
「敗者に言葉は不要だろう。ただ、無念なだけだよ」
私は彼を真っ直ぐに見据えた。ここで視線を逸らせば、死んでいった者たちに顔向けができない。
イリアスは感情の読めない顔で、一つ、奇妙な問いを発した。
「オルドー卿。あなたはこの世界を壊したいのですか?」
「壊す? 君は、そうしたいのか、イリアス。このエフィソスを……いや、ここに生きる人々の生活を壊したいというのか?」
逆質問をすると、イリアスは微かに目を見開いた。だが、彼は何も答えなかった。ただ、唇を噛み締め、消え入りそうな声で呟いた。
「……僕は実に短慮で浅はかな未熟者だ。兄上、赦して欲しい」
「君はまだ、私の事を兄と呼んでくれるのか、光栄だな。かく言う私も、ずっと君を弟のようだと思っているがな」
そう返すと彼は唇を震わせた。今の彼は凶悪な反乱者というより道を見失った迷い子のように思えた。
「一つ、兄上に報告があります。ヴォルカン・マッツを誅殺しました」
「――何だと?」
耳を疑った。ヴォルカンを?
「……なぜ彼女を?」
問いかけてもイリアスは答えない。
ただ、穴が開くほど私を見つめ、何かに耐えるように背を向けた。
◆◆
王都の地下牢は、骨まで凍りつくような冷気に満ちていた。高みの窓から差し込む、冷たく細い三月の光が僅かながらに心を慰めた。
イリアスと別れ際、彼が耳元で囁いた言葉が頭の中で繰り返される。
「シルヴィア殿が迎えに来るまで、辛抱してください」
シルヴィア・フォレスト……サニー。キミは今、どこにいる?
また無理をしていないか。過剰に私を心配してはいないか。私の事は心配ないぞ。
「……サニー。会いたいな、キミに」
冷たい床に体を休め、独りその名前を呟く。私は、魔王の仮面を何処かに置き忘れてしまった。
ただ、彼女の温もりを渇望していた。
◆◆
丸一日以上放置された後、牢獄に現れたのはアレクシスだった。
「惨めだな。紅蓮の静寂」
「そう思いますか? だったら陛下と同じですね」
「チッ。減らず口を、この異端者が」
会話を続ける気はない。私は背筋を伸ばして聞き流した。
「明日の早朝、王宮広場で貴公の公開処刑を執り行う」
「……ふん、裁判もなしか」
「とっくに終わったよ。必要もなかったがね」
牢番に促され、別室へと連行される。
そこには嫌味なほど温かな豪華な食事と、目隠し用の衝立が用意されていた。
「最後の晩餐だ。ゆっくりと寛ぐがいい」
アレクシスは最後だけは神妙な、まるで聖職者でもあるのかのような顔つきで一礼し、部屋を去った。
着替えを済ませ、私は一人、テーブルに着く。
目前のスープを、木匙で掬う。……味がしない。きっと、超一流の料理人が作った最高の一品なのだろうがお湯を飲んでいるのとさほど変わらなかった。
パンを手に取ろうとして、手が止まった。情けない事に指先が、自分の意志とは無関係に震えている。
「……さすがに来るものがあるな」
テーブルに手を置き、衝動が収まるのを待った。
凛々しくあろうとした。格好良くあろうとした。けれど、やはり死ぬのは怖いようだ。
何と言ってもサニー、キミに二度と会えなくなるのが怖い。
給仕の女官が、静かに皿を取り替える音がした。彼女は私の異変に気付いたようだったが、慰めることもせず、ただ冷めた皿を温かいものに替え、果物を剥き、傍に居てくれた。
そのさりげない優しさが、今の私には何よりも救いに感じた。
翌朝。民衆が無遠慮に浴びせる罵声の中を、私は堂々と歩いた。
昨夜、存分に醜態を晒したので不思議と心が凪いでいた。
教皇庁の執行官が読み上げる、悪意に満ちた罪状。ギロチン台へと続く木製の階段。一歩、一歩。
台の上に立った時、見上げた空は、驚くほど青かった。
ああ、鳥が鳴いている。今日もいい朝だ……。
断頭台の刃が固定を解かれ、風を切る音がする。
私は、来るべき衝撃に備え、奥歯を噛み締めた。
サニー……愛している。
――暗転。
凄まじい衝撃。
……のはずが、私は柔らかな何かに支えられていた。
閉じていた目を開けると、そこは薄暗い廊下だった。
「……大丈夫でございますか?」
私を支えていたのは、昨夜、食事の世話を焼いてくれた女官だった。
「わ、私は……いったい、どうなったのだ?」
「え? えと……廊下をお歩きになられていて……突然倒れられて……その、わたくしは、たまたま……」
背後から、突如として低い声が届いた。
「ただちにここから退去ください。猶予はございません」
警戒し振り向くと、そこには黒い軽装鎧に身を包んだ、ヒューゴの部下――『零の者』が跪跪き、身分を示す証札(※ヒューゴの落書きが描かれた木片)を差し出していた。
「レゼロ……か。どういうことだ、説明しろ。私は今から刑を受ける身だ……今更逃げるなど」
「おっしゃっている意味が分かりかねます。ヴォルカン卿に不穏な動き。ここは危険です」
まさか、時が戻った……?
あるいは、先ほどの死は夢だったのか?
――わからない。だが、この不気味な違和感は何かが決定的に狂い始めた前兆に思えた。




