027話 TS順化
王都オーディンス・クラウンの街角に、これまで久しく訪れなかった「活気」の匂いが満ちていた。それは、焼きたてのパンの香りでも、コーヒー豆の臭いでもない。鼻腔をくすぐる、爽やかでいて、どこか高潔なホップの香りだ。
かつては大陸中にのさばっていた教皇庁が独占し、腐敗の温床となっていた醸造権。それを主さまとオレがオルドー城市を手始めに「強奪」に近い形で次々と買収してから1年。
元々はヒューゴが書置きした現代知識の詰まった技術メモと、オレのセメント生産の利益が組み合わさり、見る間にオルドー家は大陸最強の「酒造メーカー」へと成長していた。
「見なよサニイ! このビールの透明度、まるで宝石だよぉ!」
王都に新しく開設された酒場兼情報ギルドのカウンターで、シックスが自慢げにジョッキを掲げる。そこにあるのは、どことなく濁りがあり酸味のある麦芽酒じゃない。透き通った黄金色の、輝くようなエール。
オルドー陣営に仲間入りしたヒューゴが初日に見せたあの執拗なまでのこだわりは、現世で造り酒屋の跡取りだっただけあってホンモノだった。
彼は製造現場に足を運び、直接陣頭指揮を執ってホップの雌株だけを選り分けさせると、今度は毬花の中に隠れた黄金の粉「ルプリン」の有無を、酒造職人たちに穴が開くほど観察させた。苦味と香りの正体を見極め、最高の一滴を絞り出す――。そのための鍛錬に彼は、一切の妥協を許さない姿勢を見せた。
「釈迦に説法だろうけれどね。オスのホップが混ざると種ができて味が油っぽくなる。メスの『毬花』だけを使うのが鉄則。いいね、常に意識してね?」
そう言って見せたあいつのドヤ顔、最高だった。彼のメモを信用して造った「パスツール法」を導入した特製温水プールは今でも英断だったと誇らしく思う。60度から80度でじっくり加熱し、美味しさはそのままに悪い菌だけを射抜く科学の魔法。
ヒューゴのさらなる介入も加わり、ついに、半年経っても腐らない「黄金の新オルドービール」が完成した。その後、街道筋の守備領主から遠方の騎士たちまでが、この酒を求めてオルドーの手形を握りしめ、長蛇の列を作っている。酒はただの嗜好品なんかじゃない。莫大な外貨を運び込み、兵士たちの士気を高め、さらには提供の場においては「情報のハブ」にもなって大陸中の動静を寄せ集めるオルドーの新たな武器になったんだ。
◆◆
その熱狂の陰で、オレの心は冷え切っていた。ヒューゴが掴んだアレクシスの策動がどうしても気になっていたからだ。
西国遠征を命じられたが、オレはどうしても一人にしておけなかった。
その夜、遠征の準備を名目に部屋に籠もっていたオレの元に、前触れもなく「彼」が現れた。乱暴にドアが開け放たれ、最近新開発した強い酒の匂いが部屋に流れ込んだ。
「……ノ、ノヴァンさま!?」
真っ赤な顔をして、足元をおぼつかなくさせた主さまが千鳥足で近付き、ベッドに押し倒してきた。黄金の瞳が、至近距離でオレを射抜く。
「サニー。きさま……どうしてわたしの言うコトを訊かない?」
「い、いきなり、何言ってんだよ……もしかして酔ってんのか?」
思わず上下の間柄を忘れて野畔に対する態度をとってしまった。
「酔ってるさ。酔ってるとも」
「未成年だろ、まだ」
「わたしはな、お前をとっても信頼している。誰よりも深く深く、信頼しているんだ。だからお前もわたしを信頼しろよ……」
「してる。信頼してます」
主さまの手が、強く両肩を押さえる。
「だったら西のザコ敵なんて、すぐに一掃してくれ。これは、主君としての命令だぞ」
「分かったよ……と言いたいところだけどさ」
彼の胸を押し返そうとしたけど力が強くてびくともしなかった。男の腕力には敵わないと今更にわからされた。
「……主さま。あんた教皇庁に命を狙われてんだぜ? 予感があるんだ。いわゆる本能寺の変みたいな事が起こるんじゃないかって、嫌な予感が。……オレ、主さまを置いて、遠くになんて行けない!」
彼の顔が急接近する。たまたまゆるめの寝間着を着ていたオレは、抵抗すればするほど胸元がはだけそうになって、思わず乙女としての慄きに身をすくませた。
「ちょ、ちょっと待って。オレ、まだ心の準備が――!」
◆◆
「……あのな、礎君」
その瞬間、心臓が跳ね上がった。転生前の、懐かしくて痛い、オレの本当の名前。
「?!」
ノヴァンさまは、オレの胸に顔をうずめるようにして、その表情を隠した。その挙動はただの、寂しがり屋の少女のものだった。
「わたし、わたしたち、もう元の世界に帰れないのかなぁ?」
「そ、それは……」
「もうそろそろ、赦してもらっても良いんじゃないのかなぁ」
主さま……でなく野畔希になってしまった肩が小さくなって震えている。
「そりゃわたし、元の世界で『こんな世界無くなってしまえ』とか『もう何もかも厭になった』とか思ったし、叫んだよ。でもさ、こっちに来て好き勝手に、精一杯生きてきて、良く分かったんだ。……周りが変わるんじゃなくって、自分が変わらなきゃいけないんだって。それが必要なんだって」
「野畔……」
彼女は顔を上げ、潤んだ瞳でオレを見つめた。
「礎君、ずいぶん可愛くなったよね。もう、元通りのキミには戻らないのかな? ……ひょっとしたら、元の礎冴は、どこにもいなくなってしまったのかい?」
オレは言葉に詰まった。今のオレはシルヴィアだ。けれど、中身はたぶん礎冴のままだ。そのはずだ! けれど、冴だった頃の自分を、もう思い出せない部分も、言われてみれば、……確かにある。
「……それは――」
「でも、それでも別に構わないよ。エルゼはさ、こんな私に『好きだ』と言ってくれてるんだし。それなら私も――」
「エルゼ姫様に会ってたのか?!」
「んん? 今日も廊下でねぇ。とうとう初キス奪われたよ」
「な?!」
オレは思わず暴れた。それを男の力でむりやり押さえつける。ますます羽交い絞め状態になったオレは抵抗できなくって身もだえる。
「……ウソさ。キミのその、可愛い反応を見たかっただけだ、……赦せ」
ノヴァンさまは意地悪く笑うと、ふっと寂しげな顔に戻った。
「そうやって不安になるくらいなら、もっと戦功を挙げてわたしを超えろ、サニー。そしてわたしをキミの意のままに動かすんだ。わたしはキミとなら……」
「だったら!」
「何度も言わせるな。キミがわたしを追い越したら、だ」
主さまはそっとオレの体から離れ、ふらつきながら部屋を出て行こうとする。「頭が痛い」とうわ言を吐きつつドアノブに手をかけた彼に、必死に声をかける。
「つまり、つまり西域を制したら、オレの言いなりになってくれるのか?!」
「……早くしてくれ。頼むな、サニー」
その晩、オレは一睡もできなかった。
彼女を守りたい気持ちと縋りつきたい気持ちが混じり合う中、西域遠征を受けるかどうか悩んだ。主さまを守るために主さまと別れて、戦功を挙げなければならない。戦功を挙げなければ、主さまは姫に取られてしまう……。そんな訳の分からない理屈ってあるか?
皮肉なジレンマに引き裂かれながら、オレは翌朝、決然と軍議の場に立った。
「フォレスト子爵シルヴィア、西域攻略の命、謹んでお引き受けいたします!」
オレの宣言に、一同がざわつく。主さまだけが、昨夜の酔いなど微塵も感じさせない冷然な面持ちで、小さく頷いた。
――待ってろよ、主さま。すぐに終わらせて、アンタの元に堂々と帰ってやる。




