挿話:免罪(中編)
馬車が揺れるたび、車輪が跳ね上げる泥が窓を叩く。
主さまと訪れたのは、オルドー領北端に位置する鉄の採掘拠点、モンティーロだった。
「……何だ、これは」
御者台から飛び降り、オレは息を呑んだ。
かつてのここは、四方八方を荒くれ者の工夫たちが埋め尽くしていた。劣悪な衛生環境、過酷な労働――元の世界で言えば、絵に描いたような「3K職場」。それでも、そこには家族のために汗水流して高給を稼ごうとする男たちの、生々しい生命力があったはずだ。
だが、目の前の光景は、そんなオレの記憶を根底から覆すほど様変わりしていた。
村の中心には、白亜の石造りの修道院がデンとそびえ立ち、その隣には医療設備を備えた「施療院」が数軒ある。子供たちは教会の学校で読み書きを習い、その親である工夫たちは仕事終わりに、広くて清潔な食堂で温かなスープやパンを囲み笑っている。
そして何より驚くべきは、彼らの瞳だった。以前のような殺伐とした「稼ぎ」への執着ではなく、どこか穏やかで、満ち足りた光を宿していた。
「サニー。あれを見ろ」
主さまが指差した先では、数日前まで「労災が絶えない」と報告されていた坑道の入り口で、教皇庁の司祭が熱心に祈りを捧げていた。
「神の御名において、この土を清めん。……さあ、清らかな心で、清らかな鉄を掘りなさい」
筋骨たくましい工夫たちは、敬虔な態度で十字を切ってから坑道へ入っていく。その足取りは、まるで聖地巡礼に向かう殉教者のように厳かだった。
「……そんな。オレが提案した朝礼やラジオ体操とかも『そんな暇ねえよ!』って怒鳴られてお終いだったのに」
結局、彼らが首を縦に振ったのは「破格の待遇」だけだった。だが、教皇庁が与えたのは、どうやら彼らの「魂の平穏」と「地に足のついた互助体制」だ。
「おや? 奇遇ですね。視察ですか?」
背後から、聞き知った穏やかな声がした。
――ベネディクト・ニューマン。先日会ったばかりの、教皇庁の偉いさんだ。
彼は首から十字架を下げながらも、その身分に不釣り合いな農夫のような質素な服をまとい、商売人か役人が重宝するような速記用帳面を抱えていた。
「ベネディクト閣下……。あんた、一体何をしたんだ。この村の連中は、まるで洗脳されたみたいに……」
「洗脳とは人聞きが悪い。私はただ、彼らに『あなたは何のために働いているのか』と問うただけですよ」
ベネディクトは村の広場にあるベンチに腰を下ろし、オレたちにも座るよう促した。
「オルドー辺境伯。それにフォレスト卿。君らの『複式簿記』や『会社』とやらの概念は大変に素晴らしい。規則を決め、金銭の計上を理論立てて整理することにより組織の舵取りをし、より効率的に富を増やす。それは間違いなく、これからの時代に必要な技法だ。……だがね」
ベネディクトは眼鏡の奥の瞳を細めた。
「悲しいかな、それを扱う『人間の心』が、まだ君たちの発想に追いついていないんだよ。君らがいくら正しい事を述べ、正論(数字)を並べ立てても、人はそんなもののために命を賭けたりはしない。だが、神の免罪のため、家族の救済のため、そして『自分は正しい場所にいる』という安心のためになら、人はどれほどの過酷さにも耐え、微笑み、幸せを感じることができるものなんだよ」
「……だから、その安心感を餌に、幸せをお仕着せするために物流を止めたってのか? あんたのやってることは、ただの囲い込みだろ!」
「サニー」
隣で黙っていた主さまが、制するように肩に手を置いた。その瞳は、目前の「聖者」を冷徹に見据えていた。
「……ベネディクト閣下。あなたはこの村を人質に、私たちに何を要求するつもりですか」
「要求などと。――いいえ、強いて言えば提案です」
ベネディクトは帳面をめくり、一枚の書状を取り出した。さりげなく出してきたが、この日この時のために周到に準備したものに違いない。
「オルドー家が抱えるすべての領地の統治権を認め、教皇庁が『総免罪』を宣言しましょう。その代わり、それに見合う額の寄進を永続的におこなっていただきたい。それをもって、ノヴァン・ド・オルドーを教皇庁公認の『エフェソス大陸における聖なる守護者』に認定します」
そこに記入された数字は、天文学的な額だった。国家予算に相当するほどと言ってもいい。
「おふざけも大概にして欲しい」
「バカか、そんな額、払えるわけがないだろっ! それは……実質的な降伏勧告だ!」
「いや、払えるはずですよ。君たちならね、オルドー辺境伯、そしてフォレスト卿。君らの『新兵器』と『新戦術』で隣国を併合し続け、その富を根こそぎ吸い上げればいい。……そうすれば、君たちの支配圏内は、この村のように平和で満たされる。間違いなくそうなる」
いとも簡単に言ってのけやがる。オレは全身が強張るのを感じた。
ベネディクトは嫌味を言ってるんじゃない。むしろ、オルドーの実力を相応に分析し、冷静にその「力」を認めてやがる。そしてその上で、オレたちを教皇庁というシステムの中に組み込もうとしているんだ。
オルドーが人を殺す算段をし、他者を侵略すればするほど、教皇庁が繁栄し民が救われる――という、悍ましい「平和サイクル」へのご招待、だ。
「……勉強になりました、閣下」
主さまが立ち上がり、礼を述べる。
「私たちはただ数字でのみ判断し、世界を良くしようとした。しかしながらあなたは『祈り』という、一見上質に思える麻薬で、世界を牛耳ろうとしておられる」
「ほう、麻薬、ですか。……ですが、苦痛に喘ぐ者にとって、それは縋りつきたい救いの手です」
ベネディクトは座ったまま、去りゆくオレら二人の背中に静かに告げた。
「世の中から戦争が無くなることだけが、幸せではないのですよ。……人は皆、自分にとって『何が大切か』を、もっと広い視野で、心で、見なければならない。ところで、本来あなたがたは戦争が好きではない。しかし戦争をやめない。それは何故ですか? ――ノヴァン・ド・オルドー様。シルヴィア・フォレスト様」
◆◆
村を出てからしばらく、オレたちは一言も発さなかった。
発つ際に、笑顔の工夫の一人に「ノヴァンさま、サニーさま、お恵みをありがとうございます。ベネディクト様が、お二人の寄進のおかげでこの施療院が建ったのだと教えてくれましたよ」と感謝されたとき、思わず目眩がした。
つまりはその施療院、オルドーから「免罪料」として取り立てた金で建てたんだろう。
完全に足元を見られている。自分たちの「勝利」さえも、相手の「善行」の材料にすり替えられていく。
「……参ったなサニー。私たちは、どうすべきだろうな」
ふと、主さまが漏らした。
「あの村の人たちの笑顔は、本物だった。私が今、強引に教皇庁を追い出せば、あの笑顔は消えてしまう。……私は、自分が信じる正義のために、彼らの幸せを奪っていいのか?」
「それは…………」
答えられなかった。
これまであらゆる局面で答えを出して来た脳内が、今度ばかりはショートしていた。どんな作戦を立てても、次手を詰めると「敗北」に辿り着く。
◆◆
一ヶ月後。
しかし運命は、オレたちの予想もしない、最悪の方向から動き出すことになった。
西域連合の有力諸侯による侵攻。
平和の園だったはずのあの村の周辺域が、突如戦火に包まれるという凶報が届いた。




