挿話:免罪(前編)
ヴァル・ド・ロンシャンでの勝利から二週間。
オルドー領内は、かつてない熱気に包まれていた。軍神バルデルの後継者、バルタザール擁する『虎の牙』を退けたという報せは、兵士のみならず領民さえも深い陶酔へと誘っていた。
だけどその熱狂の裏側で、背を刺激する冷氷が音もなく忍び寄っていた。
「……動かない? 何がだ」
「全部です、姉さん。文字通り、全部」
執務室に飛び込んできたシリルの顔は、ここ数日不眠だったのか蒼白だった。妹が机に広げたのは、各ギルドや商会から届いた「取引停止」の報告書の山だ。
それらを一枚ずつめくり言葉を失う。
――『聖域指定に伴う物資接収の報』
――『神宿る山嶺への立ち入り禁止命令』
――『免罪措置による流通管理移行の件』
差出人はすべて同じ。王都オーディンス・クラウンの教皇庁――だった。
「鉄、塩、硝石、さらには穀物まで……。あらゆる産地と、そこへ至る街道が教皇庁によって『聖域』に指定されました。確かに、元から土地神が祀られていた場所や直轄地が点在する地域ばかりですが……。神の加護を汚さないという名目で、多くの物流が彼らの管理下に置かれてしまったんです」
「冗談だろ……? そんなの、ただの嫌がらせじゃないか」
――今、オルドー家は次なる遠征に向けて、新型銃の量産と火薬の備蓄を急ピッチで進めていた。しかし……。鉄がなければ銃身は打てず、硝石がなければ一発の弾丸も撃てない。それらの源泉になる『蛇口』を、教皇庁という見えない手が、いとも容易く締めてみせたのだ。
「嫌がらせなんてレベルじゃありませんよ。物流が急停止したものだから市場がパニックを起こしてます。鉄の値段なんて先月比で三倍に跳ね上がっちゃったし、ギルドや商会は『教皇庁に目をつけられたくない』って理由で次々に契約を白紙に戻しています。……姉さん、このままだと、一ヶ月も経たずにオルドーの経済は死にますよ!?」
シリルの切羽詰まった報告を聞くと、窓の外の賑わいさえ、どこか刺々しい空気を孕んでいるように感じ出した。このままこの事態を放置すれば、じきにインフレが表面化し、物が買えずに腹を空かせた人々が爆発的に増える。そして、彼らの膨れ上がった不満の刃が、いずれどこへ向くかは火を見るより明らかだろう。
「……あいつの名前……何て言ったっけ」
オレの脳裏に、以前から報告を受けていた教皇庁の財務長官、ベネディクト・ニューマンの名が浮かんだ。
◆◆
三日後。オレは主、ノヴァンさまに従って、オルドー領内に近い教皇庁の出先機関を訪れた。(現状報告したところ、事の重大性を感じたのか、自ら動くと言い出したんだった)
そこには、かつての豪華絢爛な聖職者のイメージとは程遠い、質素だが機能的な執務室があった。
「わざわざご足労をおかけしました。若き英雄方」
椅子から立ち上がった男――ベネディクト・ニューマンは、穏やかな微笑みを湛えていた。四十前後の整った顔立ちに、知的な眼鏡。その物腰は、宗教家というよりは、現代の銀行家や官僚に近い。
「枢機卿ベネディクト閣下。単刀直入に伺います」
主さまが、抑え気味にだが、鋭い声で切り出した。
「物流の封鎖を解いていただきたい。聖域指定などという名目で、民の生活を脅かすのは、神の御心に反するのではないですか?」
「おやおや、オルドー辺境伯。その物言いは実に心外ですね」
ベネディクトは困ったように眉を下げた。
「私たちはむしろ、民を救いたいのです。度重なる戦火で大地は汚れ放題です。このところの森林火災や震災、海難事故の増加、もうすでに神の怒りに触れているとしか思えません。私たちはただ、神宿る土地を清め、そこに眠る資源を『免罪の儀』を経てから世に送り出そうとしているだけなのです」
「――その『免罪の儀』とやらのせいで、鉄が一本も届いてないんだが」
主さまが珍しく声を荒らげたので、オレも堪らずに乗った。
「検査だの祈祷だのと悪戯に手続きを増やして、その実、流通をわざと止めてるんだろう! こんな市場操作……」
「操作? 操作ではありません。私は人間の欲望の順位を少し並べ替えてあげているだけです。それに、事務手続きというもののは、時として祈りよりも長く、重いものです。それだけ重要なものだからです」
ベネディクトは少しも動じず、手元の帳簿を捲った。
「――分かりました。では私が何とかしましょう。幸い、教皇庁には優秀な人材が揃っています。流通のすべてを我が方の管理下に置き、私が責任を持って『免罪措置』を施した物資を配分しましょう。……但し少々お時間はいただきますがね」
男の弁は歩み寄りなんかじゃなかった。
お前たちの経済の鍵は、すべて私が握る。それは、完全なる宣戦布告だった。
「戦争は嫌いでしてね」
ベネディクトはオレの瞳をじっと見つめ、優しく付け加えた。
「だから私は、金ですべてを終わらせます。血を一滴も流さず、誰も傷つかず、ただ静かに、世界が神の秩序に従うように。金で戦争が終わるなら本望。剣を抜かなくて済む。ただそれだけです」
◆◆
帰り道、馬車の中は沈黙に包まれていた。
オレは悔しくて、ずっと拳を握りしめていた。相手は、銃を持って撃ちかかってきたわけじゃない。理不尽な命令を下す暴君でもない。
ただ、善意という名の分厚いクッションでオレらを押さえつけ、息をしなくなるまで待つつもりなんだ。……静かに。ジッと。
「……言い負かされたな。完敗だ。ヤツ、私たちを見て笑っていたぞ」
主さまがぽつりと呟いた。
「オレたちのことを、ものの道理も知らない子供たちだと思っているんだな」
「……ああ、そうかも知れんな。否定できないのが悔しいがな」
何気なく窓の外に目を向けたオレは、その光景に戦慄した。
領内のあちこちに、教皇庁の白い旗が立ち始めている。
現代知識で変えられると思っていた世界は、想像以上に巨大で、不気味な粘り気を持ってこちらを睨んでいた。
「ヒューゴとシリルの知恵を借りても、この『淀み』は突破できない……?」
再びよぎる「敗北」の予感。
それはバルデルのような武人との戦いとは違う。掴みどころのない、正体不明の障壁。
まるで底のない沼へ、音もなく沈んでいくような感覚だった。
――翌週。鉄の採掘場がある村から、さらに奇妙な報告が届く。
モノが入ってこないはずのその村だけが、教皇庁の支援によって、異常なほど活気づいているというもの。
「ついて来い、サニー。奴らがどうやって世界を掌握しようとしているのか、その正体を確かめる」
主さまの瞳が、恐ろしいほどに爛々と光を放つ。
「教皇庁――私をナメるなよ」
その喉元に喰らいつかんばかりの、唸りにも似た低い声だった。それはオレでさえ一瞬身を竦ませるような、鋭い殺意を孕んでいた。




