65.自欺
わざとらしく大きく息を吐き出す。
閉じた扉の奥で惨めに縮こまる男に聞こえてしまえばいい。
カマエル。
本当に馬鹿な男。
あの姿を見る度に虫唾が走る、大嫌いでしょうがない。
歩き出した私を追いかけるようにヒールの音が響き渡る。その音を聴きながら踵を強く地面に踏みしめた。
いつ来てもこの東区は灰色にくすんで見える。
息が詰まる場所。
ふと強い日差しが窓から差し込んで、影を引き伸ばした。それがまるで、性格の悪い悪魔にでもなってしまったように見えた。思わず鼻で笑う。
馬鹿なのは私も、なのかもね。
カマエルに悪態をつくためにこんな場所までやってきて。滑稽で愚か。
でも、しょうがないじゃない。
これも全てアイツが悪いのよ。
最初から全て間違っていた。
こうなってしまったのは、全部、カマエルのせい。
眉間にシワがよる。
怒りをどこに発散したらいいのか分からなくて、また踵を強く地面に下ろした。
早くこの場から立ち去りたくて真っ白な馬車に乗り込む。程なくして走り出したそれは、車内が揺れることなく穏やかに走り出した。
その穏やかさが、かえって胸の奥に荒波を立てる。
乱れた呼吸がまだ胸の奥で燻っている。
私らしくない。
指先でこめかみを軽く抑える。
数秒、目を閉じゆっくりと口角を上げた。
自分を落ち着かせる時に思い出す、あの子の顔。
肩をあげ笑う癖は小さな頃から何も変わらない。
真面目で素直、それでいて誰よりも優しい。
だからこそ。
彼女は期待を拒めない。
とっても、いい子なのよ。
「これでいいの」
誰に言うでもなく、そう呟く。
あの子は壊れてなんかいない。
兵器になってしまったかもしれない。
でも、彼女の本質は何も変わっていない。
あの子は変わらず笑っている。
だからいいの。
それだけで十分、幸せでしょう?
――そうでも思わなければ、やっていられない。
自分だけが、なんて思わないでちょうだい。
私だって……
音もなくゆっくりと馬車が止まった。
太陽が沈もうと傾きかけ、暖かないつもと変わらない日常の声が外から聞こえてくる。
耳をすませ息を整えると、いつもの自分がすぐに戻ってくる。
「――さて」
いつもの声。
いつもの温度。
私は胸を張って馬車を降りた。
中央区に戻れば、私は私でいなければならないのだから。
"あの子を肯定できる私"で。
――――――
自室に戻るのも、仕事場に戻ることもできず。
胸を張り続けたまましばらくゆったりと歩いていた。
なにかしていないと、どうにかなってしまいそう。
でも、今はほかの感情に浸りたくない。
行き先が決まらず回廊をゆっくりと歩く。
ワイアットはまだゼウス様の部屋にいるはず。
帰るタイミングで少し顔を見れたらいいのだけれど、中庭の噴水なら通りかかるかしら。
少し歩を進めながら、そんなことを考える。
以前もここでワイアットと話したことがあったわ。
確か、人間を巻き込んだことをカマエルから叱られた帰り道に。
籠宮 透。
きっと東区ですれ違ったあの子。
ワイアットとは対象的。
だけれど彼女と同じ、周りから浮き出た真っ黒な人間。カマエルの話から聞いていた、頼りげのない流されるままの軟弱な男。
とは、大きく違っていた。
凛々しく意思が宿る瞳は強く、ワイアットを支えるに十分な男だと思った。
だからこそ強く思う。
ワイアットは大丈夫だと。
心配せずとも、彼女は彼と出会い幸せだと。
そう、思っているはず。
コイツのせいかも、なんて。
まったく。
「ラファエルさん!」
はっと目線をあげる。
飛びはねた噴水の水が、冷たい汗のように顔を伝う。
「……ワイアット」
そこには、表情を和らげた彼女の姿があった。
ワイアットは私の反応がいつもより遅かったのを気にして、頭を傾げ様子を伺おうと目線を動かした。
「ワイアット、よかったら少し話さない?」
「もちろんです!」
「隣に座って」
誤魔化すように隣を指さすとワイアットは少し間を開けて隣に座る。
役職が変わって初めて見る隊服。
前の見栄えだけの軍服に比べ地味で映えない。
だけれど、気品が欠けてないのは彼女の努力ゆえかしら。
「……ラファエルさん、なんだか元気ない」
大きな瞳が揺れる。
どんな時でも敬語を崩すことのなかった彼女の砕けた言葉に、ゼウス様となんの話をしていたのかが容易に想像できて思わず笑みがこぼれた。
ワイアットはまた心配そうに首を傾げる。
「とっても元気よ、少し考え事をしていたから誤解させちゃったわね」
「考えごと、ですか?」
「そうよ」
「ラファエルさんが?」
「あら、私だって悩みくらいあるわよ」
ころころと表情を変えるワイアットの姿に、目を細め笑う。
穏やかな風が自分の長い髪をなびかせる。
不自然に顔周りだけ伸ばしたワイアットの白い髪も一緒に揺れた。
水しぶきが舞う。
「ラファエルさんの悩みって?」
「そうねぇ、なにかしらね」
「え、何か悩みがあったんじゃ……?」
「ワイアットの顔を見たら忘れちゃったの」
戸惑うような控えめな笑い声。
風に飛ばされて消えてしまうそれが、なぜだかとても心地いい。
最近のワイアットといえば、暗い表情をしてばかりで笑顔を見せることもなかったから。
彼女をここまで戻してくれた誰かに、感謝すべきなのかもしれない。
噴水の水をさらりとすくっては逃がす。
うん、大丈夫そう。
「ゼウス様と久しぶりにゆっくり喋れたんじゃない?」
「はい!沢山お話きいてもらいました」
「ふふっ、ゼウス様も嬉しかったでしょうね」
「だといいなぁ」
軽い調子で会話が進んでいく。
ゼウス様の様子。食べたお菓子。話したこと。
そして、だんだんと同じ名前ばかりを口にする。
いっそう頬を緩め、溶ける語尾。
まるで何かに射抜かれたみたいに。
バッサリと切られた短い髪が揺れるたび、胸を締め付けられる。
コイツが現れなきゃ、壊れずにすんだのに。
触れたところから、石造りの噴水の冷気が伝わる。
胸までじわりと広がった。
「幸せそうね」
音が止まる。
ぽかりと口を開いたワイアットと目が合った。
まずい、私ったら何を――
「……そうなんです!」
「え?」
間抜けな声。
「僕、なんだかトオルのことを考えるだけで胸がポカポカするんです!これって幸せってこと、なんですよね?」
笑顔が引き攣る。
そう、そうよ。
それが幸せ。
この子は今、幸せなのよ。
それでいいの。
「……私には、恋してるように見えたけれど」
「恋……?」
私の揺れる声。
そして一瞬、言葉を選ぶような間。
「……そうかも。うん。そうかも!」
ワイアットの手が噴水に触れる。
広がる波紋がやけに目についた。
「僕、トオルが大好き!
トオルも僕のこと、きっと……!」
遊ぶように、水面をなぞる。
彼女は幸せそうに笑った。
なのに私は、その笑顔をもう見ていられない。
ひきつる顔。
ああ、苦しい。
その名前を、もう呼ばないで。
くふくふと笑う声。
遮ってしまいたくて彼女の頭に触れた。
短い髪を撫でる。
波紋は広がり続ける。
まるで、止められないみたいに。
「その気持ち、忘れないでね」
――それが正しいと、思い込んでいたい。




