64.乖離
最後に見えた透くんの横顔は以前のわたしのようだった。静けさを取り戻した部屋に自分の呼吸だけが残る。
いつも仕事をしている木造の机が、やけに大きく感じて背中をソファに預けた。
結局、昔と何も変わらない。
足跡ひとつ付いていない床を見つめ、いつの間にか組んでいた指が関節を締め上げた。
不自然にくぼんだ指は、もう元に戻らない。
「……神よ」
どうか、彼らの罪を。
――わたしの罪を。
「あら、お取り込み中だったかしら」
耳にまとわりつく声。
目を開ける。
女は軽い足取りでわたしの隣に腰を下ろす。
その瞬間、左半身に体温が張り付いた。
組んだままの手に、女は手を添えた。
肩に息がかかる。
「離れろ」
「……本当に、つまらない男」
吐き捨てるように言い放つ女は私の手を撫でるように離れた。半身に張り付く熱はそのままだ。
黄緑の長い髪を払う女を横目で睨みつけた。
「何の用だ。ラファエル」
「別に用があるわけではないのだけれど」
「帰れ」
甘ったるい匂いが鼻にまとわりつく。
ラファエル。
神の癒しを司る大天使。
わたしと同等の権力を持つ彼女の軽やかな笑い声が癪に障る。こいつとは昔から反りが合わない。
「例の件。ゼウス様は大変お喜びよ」
彼女をの世界は絶対だ。
「だろうな」
まるで声が海底へ沈んでいく。
ラファエルはそれを軽く笑い飛ばすと、首を傾げ笑った。透き通る髪が同じ透明度の肌に落ちる。
無意識に目を逸らす。
「あなたっていつも不思議。嬉しくないの?」
「……」
「手塩にかけて育てた娘ですもの。嬉しくないはずがない」
「……」
「……"これ"だから、あの子はあなたに懐かなかったのよ」
嘲笑うような声色に視線が上がる。
彼女の不自然なほどに整えられた爪がわたしを指した。
部屋の温度がぐんと下がったことに耐えるよう、腹に力入れた。
喉奥が締まる。
「……お前は」
「ん?」
「お前はなぜ」
「そんなに笑っていられる?」
目の前にいるのは不気味な笑顔の女。
口角が上がりきり、和らげた目尻との距離が縮まる。
暗くなった部屋の照明だけが彼女を照らす。
白肌が真っ黒に染まった。
表に出てくることのなかった感情が頭を埋め尽くし、漏れだす。自分らしくないと分かっていながら。
「お前はこれ以上ワイアットが壊れてもいいのか」
「あの子は壊れないわ、彼女の強さを信じているもの」
ラファエルは歌うように言った。
「命の選別ができなくなり味方も敵も関係ないのだぞ。
それが大天使の、お前の言う「癒し」か」
「ええ、そうよ。
目的を与えてあげることほど、魂を安らがせる薬はないわ。……あなたのように中途半端な罪悪感で毒を盛り続けるよりは、ずっとね」
喉の奥が熱い。
ラファエルはわたしの顔を覗き込み、爪でわたしの胸元を軽く弾いた。
「透くんを巻き込んだのも、ワイアットに『人としての温もり』なんて毒を教えたのも、全部あなた。
あの子を一人ぼっちの『兵器』のままでいさせてあげれば、あの子は何も考えずに済んだのに。……ねえ、本当にあの子が可哀想なのは、どっちかしら?」
「黙れ……」
一粒の汗が落ちる。
いつの間にか丸まっていた背中。
額に組んだ指がつく。
冷たい。
自分には血が流れていないのかと錯覚するほど。
「兵器のまま生き、死ぬことが。
あの子の幸せだったんじゃないの?」
目の奥で火花が散った。
視界が回る。
視界が白く滲んだ。
ソファが勢いを返すように鈍い音を立てる。
「っは、」
気がつくと、ラファエルの首を絞めあげていた。
自分の荒々しい呼吸音と女の笑い声。
喉が動く。
息を殺したように笑う動きと心拍がわたしを責め立てる。
自分と同じだけの時をワイアットと過ごしたというのに。わたしなんかより、彼女は心を開き懐いているというのに。
なぜだ。
なぜ、こいつらは。
「っなぜ、彼女を人として扱わない……!!」
それだけで、彼女は救われるというのに――
ぶれ動く焦点が段々と滲み出す。
吐き出す息が不規則に止まった。
ラファエルがわたしの顔を見て、さらに笑顔を強める。
「っ、あなたってほんと愚か」
爪が柔い肌に食い込む。
慣れ親しんだ肉の感触。
このまま――
「何がそんなに怖いの」
喉にかけた力が僅かに緩んだ。
大きな窓から差し込んだ光が、忌々しくわたしを照らす。
無理やり体温をあげる絶対的な熱から逃げ出したくなる。
「馬鹿ね」
ラファエルは、締めあげられたままの首を傾げる。
苦しげな表情をひとつも見せずに。
「あなたはずっと"その時"を恐れている」
指先に、わずかな震え。
「自分の手で、あの子を終わらせる瞬間を」
――心臓が、止まる。
力が抜け、ソファへ縫い付けられていたラファエルの身体がゆっくりと背もたれに沈んだ。
ぷるりと震えた唇が、また開かれる。
「あなたはあの子を大切に思ってるんじゃない。
いつ壊れるのか、いつ堕ちるのか。そればかり考えて」
「そうよね。あの子を最終的に処分するのは"あなた"ですもの」
「親友との約束を二度も破る恐怖。
あなたはずっと、自分のことしか考えていない」
違う。
「っは……」
空気を求めるように、喉がなった。
「わたしは、守りたかっただけだ」
「結果が全てよ」
ラファエルが何事もなかったように立ち上がる。
鋭い視線が頭上に落ちた。
逃げ出したい。
「あの子、いつも震えてたじゃない」
思い出す。
小さな手。
周囲よりも細い体。
頭に流れ出す過去の記憶が鮮明に色づいて蘇る。
そのほとんどが、白い制服を着た彼女。
無理やり握らせた剣を、血豆が潰れるほど素振りする姿。
度量に合わない過度な特訓。
汗や鼻水で崩れた顔。
白い制服はいつも土で汚れていた。
一人ぼっちだった、彼女。
違う。
違うんだ。
わたしは彼女に同じ道を辿ってほしくなくて。
約束したんだ。
「俺たちの代わりに娘を愛してくれ」と
その言葉を、わたしは――
「あの子が震えていたのはね特訓が辛かったからじゃない。あなたの顔を見るたびに、期待という名の『呪い』を感じていたからよ」
「……親友との約束? 笑わせないで。
あなたは『良い人』でありたかっただけ。あの子を犠牲にして、自分の聖人君子な横顔を守りたかっただけじゃない」
「あなたが、あそこまで壊さなければ。
……あの子は"成功作"なんて呼ばれなかったわ」
逃げ場のない事実。
何か分からない液体が顔からこぼれる。
吐き出す息がまるで獣のよう。
ワイアットを甘やかしたこいつが。
無垢な笑顔を向けられるこいつが。
――ああ、そうか。
「あの子。あなたの前でだけ泣かなかったでしょう」
わたしは、
憎かったのだ。
「私のこと、嫌いなのね」
ラファエルが一歩、距離を詰める。
「私もあなたのこと、大嫌いよ」
耳元で囁かれた。
熱が離れていく。
足音すら残さず部屋を出ていくラファエル。
わたしだけが、だだ広い部屋に取り残された。
部屋の隅で蹲る。
愛してる。
その言葉を盾にしてわたしはあの子の指に血を滲ませ、心を削り、そしていつかその命を摘む。
現実から目を背けていたのは私だけだ。
血を滲ませた細い指が浮かぶ。
わたしの愛は、あの子を殺すための研磨剤にすぎなかったのか。
額に、組んだ指をめり込ませる。
視界が歪み白い床に透明な染みが広がっていく。
その音は、あの子が流してきたどの涙よりも醜く響いた。
お世話になっております。
冬茉 冬明灯です。
初めて後書き機能を使わせていただきます。
いつもご愛読いただき、本当にありがとうございます。
4月から新しい環境へと進展いたしまして。
ピカピカのスーツを身につけ日々奮闘しております。
そのため、勝手ながらこれまで以上に更新ペースがゆっくりになってしまうと思います。
ですが、この物語の終わりまで必ず書き抜きます。
どうか温かく見守っていただけましたら幸いです。
この作品における「善」とは何か「悪」とは誰だったのか。私自身も考え続けながら、これからも執筆していきたいと思います。
今後ともよろしくお願いいたします。
冬茉 冬明灯




