62.任命
カマエルの口から告げられる言葉が一つ一つ重い。
それなのに彼から感じられる威圧が萎んでいくのは、冷徹な指揮官の内側を俺は垣間見ているからだろうか。
腹の底で渦が巻き、心臓を締め付ける。
脳の奥が焼けつく。
「自分が何をしても赦される。自分が関わる全ては赦される。彼女は幼い頃からそう思っている。君もそうだ」
「え?」
自分の口から間抜けな声が飛び出した。
カマエルが俺の目を熟視する。
「透くんは、ワイアットと共にあのりんごを食べたな」
管理の目の元で暮らした俺たち。
全てを見られ、全てが神による実験の一片だったのだろう。もちろんカマエルも知っていること。
何らかの理由で原罪を犯したことを赦されていると思っていた、それは彼女が『英雄』であり『特別』だから。
だがそれは何重にも皮を被ったハリボテだったと。
用意された箱庭で彼女は自分が特別だと思い込んでいただけだ。
無言で首を縦に動かした。
「……あの実は食べることは愚か、触ることも赦されていない。赦されるのはただ一人」
「それじゃあ俺は?」
「わたしが西区管理員から報告を受けたのは、君が自らりんごに触れたと」
間違いはないかと問われる。
西区管理員、柊木さんだ。
彼に怒鳴られた最初の日のことは鮮明に思い出せる。
まるで導かれるように丘をのぼり、りんごに触れた俺。
簡単にそれを摂り、食べようとした所でエリアが木の上から降ってきたんだ。驚いた俺はりんごを齧る前に地面に落としてしまった。そうだ、間違いない。
食べたのはその後、エリアの家でアップルパイにして。
あ、と。
声が漏れる。
なにかが、ひっかかる。
木の上から落っこちてきたエリア。
足を滑らせたのなら彼女なら途中で羽ばたけたはず。
英雄として讃えられた戦士が、あんなにわざとらしく声を荒らげ落ちるだろうか。
痛いと腕を庇っていたのに、俺の手を引いた腕は庇っていた方の腕じゃなかったか。
そもそも、彼女はなんで急かすように俺の背を押したのか。
目が回る。
「……彼女は君に手を差し伸べたことを"私情"だと言っていた」
一人で同じことを繰り返す日々。
天界に来てからもそうやって随分長い間を過ごした。
その中で俺は何度も考えた。
もし、エリアとあの時出会っていなかったら。
視界は常に灰色がかり流されるままの屍。
死にきれず不完全なまま溶けていく。
彼女がいなければ、きっとそうなっていた。
でもそれは『あれ』を食べていなかったらの話。
俺があの場で一人『あれ』を食べていたら。
俺は、今頃。
「エリアはなぜ俺なんかを」
分からない。
なにも。
今の俺は彼女に愛されていると胸を張って言えるのに、あの頃の俺は、本当に何も――
「……それはワイアットだけが知ることだろう。
だがきっと、君の存在はゼウス様には想定外だったと思う」
カマエルの目が伏せられる。
もう彼に噛み付く気すら薄れていった。
目の前にいるのは一人娘を心配するあまり孤独に空回った父親。
きっと最初からそうだったのだろう。
俺が彼を理解しようとしなかっただけで。
カマエルから見た俺は愛娘に更なる罪を犯させた男なのだから。
「でも俺はエリアを兵器にしてしまいました。
俺がいなければエリアはまだ正義を貫けていたはず……」
「……だが、彼女を人間にしてくれたのはお前だ」
ぽつりぽつりと、カマエルはまた話し始める。
ぶっきらぼうな彼女との思い出話。
背中を丸めた姿勢はまるで神に懺悔するよう。
この男が赦しを乞う神は、誰なのだろう。
エリアは背が大きくなるにつれ本来の天真爛漫さを無くしていったという。大勢に愛された幼い彼女の面影は『英雄』としての称号を与えられた時に完全に死んだ。
戦場とあの木を往復する日々、西区にある家にはほとんど帰れなかったという。
それがある日を境に変わる。
俺が天界にやってきたと。
表情を和らげるようになったエリア。
なんとかして家に帰ろうとカマエルに反論したり、部下から止められていたと彼は話した。
それがコップが使われていたり、家具の配置が僅かにずれていた理由だったのか。俺が仕事に行っている時や寝ている深夜にたまに帰ってきていたのだろう。
俺に会えずとも、あの広い家で一人じゃないと安心を求めていてくれたのなら嬉しい。
「……はっ、」
一通り話が終わったあと、カマエルが唐突に背筋を伸ばした。
空気を飲み込む音がする。
彼の鋭い目が開かれ瞳孔が揺れる。
「カマエル、さん……?」
扉を見て、床を見て、最後に俺を見る。
彼の豹変ぶりに冷や汗が流れた。
驚愕する彼の震えが伝わる。
膝に拳が食い込んだ。
名前を呼ばれる。
「……ゼウス様からの、命令だ」
わななく声。
エリアに何かあったのか。
はたまた、俺に。
喉が閉じる。
息が上手く吸えない。
「君をワイアットの側近に……"神務随行官"に任命すると」
言葉を失った。
そんなまさか。
赦されるどころか、俺を。
俺を使って、まだ彼女を。
胸底から湧き上がる感情が血管を千切る。溢れる。
偶然が絡み合い必然となった。
もう解くことはできない。
俺はどうしたらいい。
もうなにも分からない。
彼女と共にいることしか。もう――
エリアの隣にいられると喜ぶ。
それしか、できないのだろうか。




