60.慈光
「そ、れは、どういうことですか」
急激な喉の乾きに上手く言葉を発せない。
熱がどんどん身体中に広がっていく。
目の前で変わらず笑うゼウス様が、僕に湧き上がった感情を理解しているというように慧眼を細めた。
「そのままの意味だよエリアリア。
彼はいいね、凄く素質を持っているし君との相性もいい」
心臓が肋を叩く。
痛くて痛くてたまらない。
なのに、笑いがこぼれるのはなんで?
全身が震える。
脳の奥がパチリと弾けては光を帯びた。
止まらないヨダレに舌が溺れる。
「名前はどうしようか。神務補佐官の君と相応しい呼び名を用意してあげないと」
大きな口をもごりと動かす。次の言葉が待ちきれない。さっきまで早くここから帰りたくてしょうがなかったのに、僕はなんて単純な天使なんだろう。
トオルに名前が付く。
彼の隣にいていいと、彼をこの世界に捕らえる名前が神によって。
焦らさないで、はやく、
はやく。
彼の名を――
「神務随行官」
世界が静まる。
随行官、素敵な響き。
小さくその名を呼んでみる。
嬉しくて唇が震えてしまう。トオルも喜ぶだろうか。これで僕たちは何を気にすることもなく一緒にいられる。
それはもう、永遠の時を。
「うん、いいね、いい響き。
早速カマエルに連絡しておこう!いやぁ、怒りそうだなアイツは」
首を伸ばすゼウス様はそれはもう楽しそう。
僕以上に良い事があったように頬を緩めるので、つられるように頬を緩めてみた。
「なんで、なんで、ゼウス様は僕たちを赦してくださるの」
慌てたように飛び出した僕の声が彼の元へ届く頃には小さくしぼんでいた。嬉しいはずなのによく分からない。
人間も天使もあの実に触れることは赦されない。
僕が関わったことで彼の罪が消えるなんて、ありえないんだ。僕の周りで起こることは全て、筒抜けだろうに。
「それはお前が一番分かっているだろ、エリアリア」
カマエル指揮官と同じようなセリフ。
そう、やはり、僕は誰よりも自分を理解しているということ。この世界で何をしても赦される。
僕はそれを利用した。
ゼウス様が立ち上がる。
裸足で床を歩く音が僕に近づいた。
大きな手が僕の頭の上を滑り頬を撫で、そのまま目線を合わせられた。誰よりも大きな神がこんなにも小さな天使に背を合わせるだなんて、きっと傍からみたら滑稽だろう。まつ毛が揺れる。触れてしまいそうなほど近い。
「可愛い可愛い俺のエリアリア。
より熟したりんごにしてくれた人間に感謝を」
蛇のようにまとわりつく声。
僕はりんごだとゼウス様はよく言う。
そういえば、世界の始まりでアダムとイヴにりんごを食べさせた悪魔は蛇の姿をしていたと。
なるほどと目をつぶった。
僕はりんごではなく、天使の姿をした蛇だったのかも。
トオルにりんごを食べさせた蛇。
うん、そっちの方がしっくりくる。
近づいた熱がどこにも触れることなく離れていった。
「さあ、エリアリア。 少し話をしよう。
お前と彼の話を、昔のように」
そのまま僕の手を引いて大きなガラスの扉を開ける。
広いバルコニーには丸テーブルと椅子が2つ。
脚にツルが巻き付き花を咲かせている。
そのひとつに座らせられ、向かい側に彼が座った。
女が音もなく僕の好きな焼き菓子と紅茶をテーブルに置き部屋の中へと戻っていく。
カーテンが向こう側で閉められた。
優しく笑う、ゼウス。
それはまるで愛らしい人形に向けるような顔。
この顔は、好き。
「さぁ何から聞こうか」
ハーブの混じる紅茶の香りが、僕の胸を包み込んだ。
ゆっくりと溶けていく。
溢れ出てくるのは黒い瞳の彼のこと。
皮膚の下が暴れ狂う。
呼吸が浅くなる。
誰かに話したくてたまらない。
この天界に来たばかりの頃のように。
全てが眩しく輝いて見えたあの頃のように。
世界で彼だけの笑顔を守ろうと戦った僕を、どうか赦して。ねぇ、話を聞いて。
「ゼウ、ゼウ、話を聞いて」
何百年と、口にすることのなかった名前。
一度呼んでしまえば躊躇は無くなる。
暖かな闇の中にいた僕を。
幼い僕を天界へ導いてくれた貴方。
馬車の中で感じた寂しさは、もう微塵も感じない。
大切な貴方に愛してやまない彼のことを、話したい。
「聞いているよ、エリアリア」
太陽のように笑う貴方。
何も、変わらないのね。




