57.受胎
集落から少し離れた場所に置かれた馬車を背に、俺達は進む。ゆったりと確実に進む足並み。揃う歩幅。
エリアに手を引っ張られ天界に招き入れられたあの日とは違う。
あの日は彼女の眩しさに目を細めていた。
ただ、二人が笑っているのはあの日と同じ。
悪臭に鼻が曲がる。
足が震えて叫び、胃の奥を全て吐き出してしまいたい。でも今歩いている道が地獄であると俺には思えなかった。
「僕のサーベルを使って」
差し出された銀色の柄は朝日を弾いて美しく輝いていた。彼女と共に生きてきた半身であり、英雄としての道を切り開いてきた純粋な凶器。
それを受け取った瞬間、ずしりと鉄の冷たい重さが体にかかった。
俺の手の中では、みすぼらしく震えている。
こんな重いものを持っていたのか。
持ち上げるのがやっとで、彼女のように振るえる気がしないそれを俺は強く握り直した。
「大丈夫、すぐになれるよ」
彼女の瞳の中心が、まだ大きく開かれている。
きっと自分も同じ瞳をしているだろう。
「エリアはどうするんだ」
「僕はどうにでもなるから」
そうして、悪戯に笑う彼女に俺は手を握り返した。
鼓膜を揺らす笑い声がくすぐったい。
だがそれもすぐに、進む先から聞こえてくる慟哭により上書きされてしまう。
咆哮にも近いそれに、思わず前を見た。
赤黒く染まった集落に黒い軍服を身に纏った影が張り付いている。
命が切れた塊を触り、抱いて、涙している。
目の前の愛した者に夢中で、こちらに気づいている素振りはない。
エリアが俺を見た。
「大丈夫。僕が全部、教えるからね」
そう言って、息を整えると俺にも呼吸を合わせるようにと目配せをした。
繋がれた手が離れ、生暖かい空気がまとわりつく。
背中の皮膚が粟立った。
「行くよ」
彼女の声を合図に、地面を蹴る。
体が自然と先を行くエリアに付いていく。
付いていけている。
エリアには腕を震わせ、足をもたつかせた無様な男に見えているのかもしれないけれど。
吐き出した呼吸音がうるさい。
それでも、遠ざかる彼女の背中をがむしゃらに追えている自分が誇らしくて堪らない。
エリアが、いっそう強く地面を蹴った。
「っ!おまえは」
地面に膝をつき嗚咽を漏らしていた男。
エリアの存在に気が付き、顔を上げた瞬間、エリアの華奢な足が男の顔にめり込みんだ。
男が吹き飛び、衝撃で家の壁が崩れ落ちる。
「貴様っ!!」
吹き飛ばされた男の絶叫は聞こえてこなかった。
一斉に視線が一点に集中する。
目の前で静かに止まったエリアの右足に俺もその他と共に釘付けになっていた。
白いブーツを汚す、どす黒い赤。
「……あ」
震える手で、借り物のサーベルを握り直す。
俺が今から相手にしようとしてるのは人間だ。
泣き、喚き、こちらを増悪の目で見つめる、俺と同じ人間。家族を呼ぶ声の掠れが俺が彼女の名を呼ぶ声と重なる。
なのに、どうしてだろう。
襲いかかってくる男たちの怒号よりも、彼女の吐息のほうが、ずっと近くに感じられる。
「トオル。……抜いて」
エリアが、俺の目を見ずに囁く。
俺達の周りだけが静まり返ったように彼女の声だけが俺の耳に届く。
「鞘から抜いて、僕の後に続いて。
……大丈夫、トオルならできるよ」
暖かな声。
一瞬、知らない女の人の声が重なったような気がした。
まるで、“できないなんて言うな“と諭すように。
抜く勇気も、振るう腕力もないはずなのに。
彼女に「できる」と言われるだけで、俺の心臓は震えて肋骨を叩く。それに押されるように震える剣を鞘から抜いた。
「利き手で握って。
そう、左手はバランスを取るように後ろへ」
エリアの言葉に添わすように体を動かす。
「左足が前、膝は伸ばしきらない。
……上手。刃先は常に相手の頭へ」
眼の前で光る銀色に自分の醜い笑みが歪んで映る。
迫る恐怖に刃先が揺れ続けたが、それでも前を見た。
彼女の名前を叫び散らかす黒。
俺など見てはいないというのに体が重苦しく動かない。
「最初は振り下ろさなくていい。
当てるだけでいいよ」
甘さが溶けたような声が染み込んで俺の呼吸を無理やり整わせた。「怖い」と俺の体は全身で叫ぶのに、視界に映る白は震える事も怯えることもせず堂々と立っている。大きな剣を振りかぶった巨漢がエリアの目の前で大声を上げ、唾を飛び散らかす。
彼女はなぜか、俺へと振り返った。
予期しない行動に、危ないと叫ぶ声もでない。
刃が彼女の首元で光る。
エリアは、とびきり幸せそうな丸い頬で笑った。
「僕だけを見ててね」
頭の中が、弾ける。
刹那。
視界が歪んだ。
全身に走る鈍痛。
抱え込んだ温もりと混ざり合う。
「……ぁ、」
突き出した右手の先で、銀色が穢れた。
もぞりと左手に抱え込まれた白色の頭が動く。
視線は、下ろせなかった。
目の前で男がよろける。
左胸に、刺さる刃。
これ、は、エリアが?
違う、彼女は何も武器を持っていなかった。
じゃあ、これは、
━━━誰の手だ。
「……トオル」
上擦った声と右腕をなぞる小さな温もりに、目線を落とした。
呼吸が荒くて煩い。
心臓が警報を鳴らす。
目線の先でエリアは、腕の中で蕩けている。
彼女の手が、俺の右手に重なり、
止まった。
全身が逆立ち、叫ぶ。
「上出来」
柔らかい唇がそう告げて、俺の手を握ったまま刃を引き抜いた。
血が飛び散る。
エリア越しに男が呻き、膝から崩れていく。
だがそれを、彼女は許さない。
離れていく温もりが、男から大剣を乱暴に奪い背後に回ると背中に刃を突き立てた。
肉を突き破る音。
それよりも先にエリアの呼吸が聞こえた。
生暖かい液体が飛び散り、俺の頬を伝う。
男の体から突き抜けた銀色の刃に俺の姿が見えた。
異物が喉奥から込み上げる。
「んぐっ……!」
吐き出る前に、飲んだ。
硬い塊が無理やり胃の中に押し込められる。
その感覚に喉が細かく振るえた。
崩れ落ちた男から、彼女の背丈ほどある大剣を引き抜いたエリアはいつも通りの何食わぬ顔で俺を見つめた。
「嬉しい」
その声が、わずかに揺れた。
顔に熱が集まる。
これが、どういう感情なのか分からない。
だが何かが体の中で落ちていく。
体は拒んでいる。
なのに、心はそれを受け入れる。
血溜まりを作る男など目に留めず彼女だけを見つめ歩き出す。もう、手は震えていない。
ああ。
吸い込んだ空気に、鼻の奥が痛くなる。
口を緩く開いた。
「……できた」
彼女に声が届いたのかも分からない。
また、騒音が近づいてくる。




