54.残滓
マグカップに、白い湯気が立っている。
中には赤茶色の液体が、俺の動きに合わせて揺れていた。
その色が、どうしても街に広がっていた“あれ“を思い出させて、俺は一瞬だけ視線を逸らす。ことりと、小さい音がテーブルとぶつかり、目の前に置かれたそれをエリアは目を細め見つめた。時刻は、21時を指している。
「紅茶、入れるの上手だね」
紅茶の温かさに、彼女は息を吐きながら呟いた。
どこまでも、澄んでいる声。その声に縋るように耳を傾けた。
マグカップに唇をつけたまま話すエリアに、自分のマグカップを置きながら向かい側に座る。東区にある、エリアの部屋。仕事を終え、戻ってきた俺たちを向かい入れたのは、白く無機質な部屋ではなく“あの家“を思い出させる家具たちだった。
前からそこに置いてあったかのように、何食わぬ顔で並んでいる。
カマエルが、運び込ませたものだろう。
色が戻った部屋の中、エリアは下唇を突き出しながら目線を逸らす。
俺は、紅茶を一口。
「練習したからな」
答えた自分の指先を見る。
念入りに手を洗ったのに、爪の間に消えない暗いシミが残っている気がして俺は慌ててマグカップを握り込んだ。
「……トオルの、下手くそな紅茶飲みたかったなぁ」
エリアが不貞腐れたように言う。
その無邪気さが、どんな刃よりも鋭く胸に刺さる。
痛みを誤魔化すように、笑った。
「美味しいんだ」
「僕の好みだね」
「それじゃあ先生に感謝しないとな」
「……ラッパ堂の?」
「そう、マテオさん」
その名前を口にした瞬間、喉の奥に苦い塊が迫り上がってきた。
白い髭を蓄えた、慈愛に満ちたマテオさんの顔。
あの喫茶店に流れていた、平和を煮詰めたような穏やかな時間。
彼は、エリアが羽を休められる食卓を作るのがうまかった。
「……あの人の紅茶、本当に美味しいよね」
エリアが、懐かしそうに目を細める。
「僕も昔、彼に教えてもらったんだ」
穏やかに、エリアは笑う。
目を伏せ、長いまつ毛が影を落とした。
「この紅茶を飲んでいる時だけは、
僕、自分が『英雄』だってこと忘れられるから」
――もう君は、英雄なんかじゃ、ないのに。
乾いた声が出そうになって、慌てて閉じる。
彼女を「英雄」から引きずり落としてしまったのに。
彼女はまだ、自分がそこにいると思っている。
紅茶の表面に、自分の顔が映る。
頬にこびりついた血は、シャワーで洗い流したはずだ。
なのに水面に映る俺の顔はどす黒い赤に染まっているように見えて、思わずマグカップを揺らした。
「……それなら、いつでも俺が淹れてあげるよ」
振り絞った声は、紅茶の湯気に溶けて消えた。
エリアは、俺の言葉を宝物でも受け取るかのように、大切そうに微笑んだ。
「うん。約束だよ、トオル」
彼女の表情を、目に焼き付けるように見つめた。
出会った頃と変わらない、無垢な笑顔。
その笑顔の下で、彼女が何に囚われているのか。
それが、嫌と思うほど分かってしまった一日だった。
「トオル……手が、震えてるよ?」
エリアが心配そうに覗き込んでくる。
彼女の瞳に映る俺は、果たしてどんな顔をしているだろう。
笑顔を、張り付けているのだろうか。
「……少し、疲れただけだ」
嘘をつくことに、躊躇がなくなっていく。俺は、汚れていく。
「今日はもう、寝ようか」
エリアが立ち上がり、俺の手を引く。
彼女に導かれるまま俺は立ち上がった。
飲み干したはずのマグカップの底に、一滴だけ残った赤茶色の液体。
それが、泣ぬれた瞳のようにこちらを見つめている気がして、俺は照明のスイッチに手を伸ばした。
――――――
電気の消えた部屋。
カーテンの隙間から差し込む月の光が、床に長い影を落としていた。
隣で、エリアが規則正しい寝息を立てている。
街を赤く染めた嵐が嘘のように、彼女の横顔は静かで美しい。
思わず、彼女の髪に触れようとして、指先が止まる。
石鹸の香りが、俺とエリアを包んで纏わりつく。
目を瞑れば瞼の裏に地獄が映しだされるというのに、この匂いが、俺を現実に引き戻す。嫌いな匂いだったはずなのに、安心してしまう自分がいるのが怖かった。
「……っ、」
頭の奥が冷えていく感覚にシーツを握りしめ、耐えた。
寝返りを打ち布団が降り重なる。
疲れきっている体は、連日まともに眠れていないはずなのに、睡魔がやってくることはなかった。エリアから言葉にならなかった寝言がこぼれて、今度こそ、髪に触れた。髪が指の間を流れて、落ちる。清らかな水のように。
――この美しさを、失ってほしくない。
何度も彼女の髪に触れる。
――俺は、一体、何がしたいんだろうか。
体をベットの上でよじって、彼女に少しばかり近づく。
自分の呼吸する音がうるさくて息を止める。
そして、エリアの寝息に身を寄せた。
エリアを汚してしまった俺が、彼女を救いたいと思うのは都合が良すぎるか。
俺に、何が出来るというのだろう。
共に血を浴びて、隣を歩くことしかできないのだろうか。
いや、違う。俺は、そういうことをしたいんじゃない。
ずっとだ。俺はただ、エリアに、笑っていて欲しいだけ。
ただ、それだけ。
それならば。
「……ト、オル……?」
眠りの淵で、エリアが俺の名前を呼ぶ。
髪を触られていた、微かな振動で目を覚ましてしまったのか、無意識に俺の手を探り寄せた。逃げ場のない温もりが、冷え切った俺の肌をジリジリと焼いていく。
エリアは寝ぼけた目を、重たそうに開けた。
「……眠れない?」
初めて聞いた、くぐもった声。
エリアはいつも背筋を伸ばしていたから、無防備な姿に自然に笑みが溢れた。
彼女は俺の反応がよく分からなかったのか、俺の手を強く握った。
その拍子にエリアの指が絡まる。
――手放したくないな。
強く、強く、思う。
俺が彼女を壊した悪役だと、罵られても。
この先、俺の言動でエリアが壊れようとも。
エリアが、俺一人のために命をかけるなら。
それなら、俺は――
彼女を繋ぎ止めるように、手を握り返した。
爪が彼女の白い肌に食い込む。
一瞬、息を詰めたが、すぐに顔を綻ばせて笑うエリアを見て、酷く、胸が焼けた。
「……大丈夫。もう、寝れそうだ」
急に、睡魔がやってくる。
「よかった……おやすみ、トオル」
青い瞳が、見えなくなっていく。
溶けるように、寝息を立て始める彼女の手を引き寄せた。
石鹸の香りがする。
「……おやすみ、エリア」
ゆっくりと、意識が沈んでいく。
目が覚めるまで、この手が離れていないと確信を得て。




