52.自責
エリアの腕が、しなやかに動いた。
刃が天めがけて光る。
刹那。
影が這い上がり、冷たく背筋をなぞった。
「えりあ」
右足が一歩、確かに動く。
もう一歩。
踏み出そうとして、足がもつれた。
体が前に倒れ込んで、思わず手が地面に触れる。
だが、ここで膝を着いてはいけないと、立ち上がる。
また、もつれる。
呼吸の音、彼女を呼ぶ自分の声が耳元で叫ぶ。
やめろ。
止まってくれ。
迷ってくれ、立ち止まれ。
伸ばした腕。
指先が、彼女の肩に、触れる。
最後に飛び出たのは、乾いた笑い声だった。
剣が空を裂く。
酷く湿った破裂音。
耳に張り付くそれが、何に触れたのかが見えた。
ボールを追いかけていた少年が、ふっと、その場に崩れ落ちる。影に生気が染み込んでいく。
少年がさっきまで蹴っていたボールが、その上を転がっていた。コロ、コロ、と。
乾いた音だけが、不自然なほど静かになった街に響いた。街が、ゆっくりと色を失っていく。
「……っ、げほっ……!」
胃液が逆流し、地面に膝をつけた。
湿っている土。
さっきまで子供たちが遊んでいた温度をまだ保っているのに。
吐瀉物の中に、今朝食べた物が見えた。
それを、一点にみつめる。
破裂音が反響して、耳に張り付いては、影が声を囁く。涙と涎が、混ざって垂れ流れる。
「――第一区画、処理完了。次へ移行します」
エリアの声が、不自然なほどはっきりと耳に届く。
その声には、抑揚も、悲しみもなかった。
彼女は、止まらない。
散ったものを踏みつけ、地面に足跡を付ける。
「聞こえるか。これがお前の知りたかった真実だ」
カマエルの声が、耳元で這うように響く。
「しっかりと刻め。お前の愛した少女は、
こうして『天界』の平和を保っている」
その声に、無理やり頭を上げさせられた。
視界いっぱいに映る、赤。
洗ったばかりの洗濯物に、飛び散っている。
爪の中に土が食い込んだ。
一つ、また一つと、消えていく灯り。
エリアの背中を見て、もう、目を伏せることさえも、俺にはできなかった。
彼女が振るう、剣筋を追うのをやめられない。
顎を伝った胃液が、ぽたり、と落ちる。
その一滴が地面に落ちていく音が耳に届いて、瞬間、ふっと、世界が遠のいた。
「……は、は」
笑い声は、もう自分のものではなかった。
涙が溢れているはずなのに、頬を伝う液体は、氷水のように冷たい。
脳のどこかで、何かが弾けて、全てが焼き切れた。
朝日が差し込む部屋が、浮かんだ。
「今日はね、少し忙しくなりそうなんだ」
そう、他人事のように言った君。
「でも、きっとすぐに終わるよ!」
そう、俺に笑顔を向けてくれた君。
きっと、あの時も、ずっと、ずっと前から。
ふざけて、一緒にご飯を食べて、笑った、あの日々からずっと。
ずっと、ずっと、昔から、
彼女はこうして、生きてきたんだ。
そう考えれば、考えるほど、涙が溢れて、嘔吐する。
どこかの家の昼食だったスープの匂いに、鉄錆の匂いが混じる。
今朝飲んだ、冷たいスープとは違う。
暖かな匂い。
だがそれも、生臭い匂いで上書きされていく。
すぐに、匂わなくなった。
「……彼女は、エリアは……
いつも、っこんな、ことを……?」
絞り出した声。
膝に力が入らない。
首だけを後ろに捻り、彼を見上げた。
カマエルは、瞬き一つせず、エリアを見つめていた。
「そうだ」
肺が空気を吸い込む音が鳴る。
カマエルは、冷静だった。
「だが、今回の任務は……」
彼は、俺に視線を落とすことは無い。
目の前で行われている物を、目に焼き付けんとばかりに目を開く。
どこかで、子供を探す母親の悲鳴が聞こえた。
「ワイアットが指揮していた『特攻隊』を全滅させた『罰』でもある」
エリアを見る。
剣を下ろすスピードも、変わらない。
相手が子供でも、年寄りでも、なにも。
迷いも、戸惑いもない。
構わず、走り、切り裂く姿。
白い翼が、影に溶けることなく光り輝いている。
飛び散る赤の飛沫の中を舞う。
美しさに、縫い止められた。
「お前は、ワイアットの強さを『選ぶという可能性を、自分で切り捨てられる』ことだと言ったな。
どうだ。これを見ても、間違っていないと言えるか」
昨夜、自分が言い放った言葉。
そうだと思っていた。
いいや、違う。『そうだったんだ』
昨夜エリアは俺を見て「ありがとう」と言った。
喧嘩をしたのに、怒鳴り上げてしまうほどの、大喧嘩。俺は、謝りたくて許して欲しくて、仕方がなかったのに。
『俺』のために、戦ったと。
そうしたら楽になったと、他はどうだっていいと笑ったエリア。
それならば、
エリアに仲間を手に掛けさせてしまったのは、誰だ?
その罪の罰だと、平穏に暮らす一般人を殺させているのは?
もしかしたら、この中にエリアを知る大切な人がいるんじゃないか?
そうしたら、そうしたら、
エリアに、家族を殺させているのは、誰だ?
ひくりと、涙が止まった。
飛び出そうになった言葉が、喉に張りつく。
頭の中が、静まり返った。
「……俺の、せいか」
呟いた言葉は、吐瀉物と一緒に地面に沈んだ。
カマエルは俺を見下ろし、冷たく言い放つ。
「そうだ。お前の存在が、最悪の形で彼女を壊した。
彼女の正義は、もうお前だけだ」
その声の後ろで「お前のせいだ」と声が聞こえた。
カマエルの声のような気がして、思わず彼の目を見つめる。
冷徹な瞳。
その奥で、確かに、何かが燃えるように揺れた。
だがすぐに、目線をエリアに戻してしまう。
最初に会った時と、同じ表情だった。
エリアを想う、父親の――




