41.逃避
朝日が、昨日と同じ角度で差していた。
それだけで、少し腹が立った。
世界は、何も失っていない顔をしている。
ふらりと立ち上がり、エリアの部屋へと戻った。
何も無かったような空気が漂っている。
視線が窓の外へ向かわないように、動いた。
ベッドの上。
赤いりんごと、着なかった服。
そして、端に追いやられた血のついた軍服。
朝日に照らされたそれは、思っていたよりずっと赤かった。
捨てようと思えば、すぐだった。
ゴミ袋は、すぐそこにある。
だが、それを全部抱えて階段を下りる。
水場の空気が冷たい。
洗濯機の前で、俺は動けなくなった。
きっと、この汚れは洗ったらすぐに元の白さを取り戻すだろう。
そう作られている、はずだから。
ベッタリとついた血。
鉄くさい匂いが鼻について、日常から意識が遠のく。
汚れは洗い流さないといけない。
でも、
落としたら、さっきの事がなかったことになる気がした。
落とさなかったら、エリアがここにいた証になる気がした。
結局決断ができず、洗面台に置いて選択を放棄する。
また、エリアの部屋に戻った。
りんごを手に取る。
俺たちをずっと見守ってきた真っ赤なりんご。
食べる気には、なれなかった。
冷蔵庫に入れておこう。
部屋を出ようとドアノブに手をかける。
そういえば。
一点に、目がいく。
写真。
多分、エリアは一瞬俺ではなくこれを見ていた。
棚の上にりんごを置く。
代わりに写真立てを手に取った。
ワンピースを着た少女が、中央に立っている。
少しだけ、肩が上がった笑い方。
その周りを、黒い服の人間たちが囲んでいる。
全員、同じ色。
表情は、みんなが笑顔。
心の底から、笑っているような。
家族写真、なのだと思う。
でも、何かがおかしくて。
それがなんだか分からない。
もう一度、少女を見る。
やはりエリアに似ていた。
幼少期の時の写真なのだろうか。
「……じゃあ」
少女の1番近くで微笑む女性。
優しそうな笑顔に、母親の面影を思い出させる。
これが、エリアで。
これが、エリアの母親、だとしたら。
全く、似てないな。
「 あ 」
背筋が凍った。
この写真。
写っている人、全員。
黒に、無理やり色を混ぜたような髪色をしている。
こんな髪色、天界に来てから見た事がない。
みんな、白に色が混ざったような髪をしているのに。
黒い俺、灰色の有坂さん。
人間だけが持つ黒の色。
じゃあ、この人達の黒は?
考えても、分からない。
分かってしまうのが、怖い。
ただ言えることは、この中で1番孤独なのはきっと真ん中だ。
周りと違う。
真っ白の少女。
腰元まで下ろした長い髪。
フリルがついたワンピース。
周りの人との身長差や、表情の幼さから年齢は7歳か8歳くらい。
膨らんだ頬は赤く染まっていて、楽しそうにカメラに向けピースしている。
女の子らしくて、可愛い。
これがエリアだとしたら、
バッサリと切られたショートカット、血に塗れた軍服。
それに身を委ねた今の姿は――
その先を考えようとして、やめた。
あんなことを言ってしまった俺に、エリアの気持ちに寄り添う資格は今はない。
元の場所に戻そうとした、時だった。
カランっと小さな音を立てて、写真立ての裏が床に落ちた。
足を曲げ、拾う。
写真立てを裏返した。
止めておく金具が緩まっている。
まるで、何度も何度も裏を取り外したようだ。
「……なんだこれ」
写真の裏に、何か書かれている。
何度も読まれ、なぞられ、薄く消えかかっている。
目を凝らした。
『エリアへ
あなたは、強い子だからきっと、できる。
できないなんて言わないで。
逃げないで。
大丈夫。
みんな、あなたを見ているから』
そう、書かれていた。
エリアの母親の字だろう。
そう思いたかった。
子どもを励ます、普通の言葉。
なのに。
逃げ場が、どこにもない。
息が詰まった。
「僕の母はね、とても厳しい人だったんだ。
でも、それは僕を思ってくれてるから、母の優しさゆえに僕を厳しく育ててくれた」
エリアの言葉を思い出す。
本当に、優しく、厳しい。
エリアは、この鎖に縛られているのだろうか。
そう思うが、なんともしっくりこない。
きっとエリアは、母に囚われているなんてことはない。
でも、それじゃあ、なんで。
人間と、天使は最初から分かり合えない存在だったのだろうか。
きっと、それも違う。
俺の声は、もう、誰のための言葉でもなかったのかもしれない。
それも違う、と思いたい。
写真をもとに戻し、りんごを手に持って部屋を出た。
今日が休みで、本当によかった。
ようやく外を見る。
鳥が窓のそばで鳴いた。
それを聞いて、俺は安心してしまった。
世界が、昨日のことを何一つ覚えていないことに。
胸の奥で、
何かが静かに冷えた。
本当に一瞬だけ。
それが安堵だと気づいた瞬間、俺は目を逸らした。




