35.警鐘
「昨日は楽しかったな〜!」
昨日に引き続き上機嫌なリュカが、午前の穏やかな空気を弾ませた。
「んじゃ!巡回!いってきまーす!」
警備員の中でも、彼は随分と明るい方で。
俺たちは暖かい目で彼を見送り、リュカはそのまま外へ出ていった。
手に持っていた資料へ視線を戻す。
数日前、案内所へ行き、頼まれた巡回ルートの見直しはもう済ませており資料を送付済みだ。
それの承諾書と、数枚送られてきた新しい資料に目を通す。
『巡回ルート追加について』
先日提出された見直し案を承認する。
加えて、以下の区域を新たに巡回対象とする。
・中央区第七通り(夜間)
・宮殿外周、北側一帯
・旧倉庫区画(立ち入り制限区域)
……増えたな。
北区外にも、巡回を入れるのか。
それに、普段なら軍の人達が担当している場所だ。
理由は書いていないが、なんとなく察しはつく。
こちらに回せる人員が足りていないのだろう。
昨日、有坂が話していた。
「人が動く前って、書類が先に増える」
その言葉の意味が、分かってしまった。
もしかしたら俺も、
夜の警備に入ることになるかもな。
とりあえず新しく増えた巡回ルートを、どうやって割り振るか。
目の前の仕事にだけ集中する。
こちらの人手だって限られている。
それでも、回さなくてはいけない。
息を吐いた。
――――――
今日のところは自分が夜の警備をすることにした。
急なことであるし、一度この目でも見ておきたかったからだ。
日は完全に沈みきっていて、街灯の明かりだけが通りを照らしている。
懐中電灯を片手に歩いていた。
中央区第7通り。
宮殿に繋がる、中央区で1番大きな通りだ。
なんでここが1番通りじゃないのか疑問に思い、有坂に聞いたのは、警備員になってから間もない頃だっただろうか。
彼の話によると『7』という数字は『完全』や『神の安息』の数字かなんだかで……
このセレスティアの真ん中を通る道が、1番最後の7という数字なことに慣れるのに、かなり時間を要した記憶がある。
――なので、
1番賑わっている7番通りは、店のシャッターが閉められ、
昼とは違った顔を見せていた。
不気味さがないのは、どの店も2階が民家になっていて、オレンジ色の暖かい光がカーテンの隙間から漏れているからだろう。
どこかの家から夕飯の匂いが流れてきて、ふと現実に引き戻される。
お腹がすいたなと、目を逸らした。
ザザザ、と、腰元につけた通信機が音を立てる。
その音に答えるように、冷たい機械に手を伸ばした。
「こちらリュカ。旧倉庫、異常なし」
いつも弾んでいる声に、雑音が混じり無機質だ。
俺と一緒に中央区の東側に位置する旧倉庫の警備を担ってくれた彼には、感謝してもしきれない。
無線を握り直し、冷たい空気を吸い込んだ。
「こちら透。第7通り、異常なし。
これから宮殿外周を警備する」
「了解。気をつけて」
「ありがとう。そっちもね」
通信を切ると、また静けさが戻ってきた。
街灯の白い光の下で、自分の足音だけがやけに大きく聞こえる。
規則正しいはずのその音が、今日は妙に頼りなく感じた。
宮殿外周の道は、昼間なら観光客や巡礼者でそれなりに賑わっている。
けれど夜になると途端に人通りが途絶え、石畳だけが冷たく続いていた。
天界に来てから、何度も歩いた道だ。
見慣れているはずなのに、今日はどこか違って見える。
……気のせいだろうか。
角を曲がったところで、ふと足を止めた。
遠く、宮殿の北側――普段なら灯りの落ちているはずの窓の一つが、ぼんやりと明るい。
小さな、橙色の光。
夜間の作業だって珍しくはない。
軍の施設なんて特にそうだ。
だからそれ自体はおかしなことじゃない。
それでも。
「……なんか。いやだな」
独り言は、冷たい空気に吸い込まれて消えた。
無線に手を伸ばしかけて、やめる。
この程度で報告するのも大げさだ。
ただの見回り中の明かりに過ぎないかもしれない。
もう一度歩き出そうとした、その時だった。
――カン。
金属同士がぶつかるような、乾いた音が一度だけ響いた。
反射的に、足が止まる。
音がした方向は、宮殿入口へと続く正門の方だ。
振り向いた。
風のせいかもしれない。
門が揺れただけかもしれない。
そう思いながらも、胸の奥に小さなざわめきが生まれる。
――確認だけ、しておくか。
来た道を、引き返す。
街灯の光と、懐中電灯の白い光が混ざる。
頼りない。
懐中電灯を揺らして、
正門の影を、ゆっくりと照らした――
当然、誰もいない。
風が石畳を撫でる音だけが不自然に大きい。
門は固く閉ざされたままで、昼間と何も変わらないように見える。
……気のせいか。
小さく息を吐いた、その時。
通信機が、短くノイズを吐いた。
「――こちらリュカ」
普段より低い声。
一瞬で背筋が冷える。
「透。そっち、何かあったか?」
背中に、嫌な汗が伝った。
一気に乾いた唇が、薄く開く。
かさりと、皮がめくれる。
「……金属音が1回。でも、なにも異常は見当たらない」
通信機の向こうで、リュカが小さく息を吸い込む音が聞こえた。
向こうでも、何かあったのだろうか。
止まった足が、地面に縫い付けられる。
言葉を、待った。
静寂に包まれる。
「……使われてない旧倉庫に、軍の馬車が二台来たんだ。
それで、もう、こっちの警備はいいって」
「どういうことだ?」
「分からない。でも、何かを運んでいるようだった」
得体の知れない、何かが押し寄せる感覚に思わず身が震える。
門を照らしたままの懐中電灯の光が、蝶のように不規則に揺れているのを、呆然と見つめた。
俺たちが踏み込めない場所で、確実に、何かが始まったような気がする。
生唾を飲み込んだ。
「とりあえず、合流しよう」
「了解。正門前で落ち合おう」
ぶつりと、連絡が途切れる。
何も音を発しなくなった通信機を腰に戻す。
彼が来る前に、もう一度辺りを確認しようと震える手で懐中電灯を動かした。
ここに来てから初めて、はっきりと思った。
――この世界は、本当に安全なのだろうか。




