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16.誇り




「――顔色が良くないね、ワイアット」


宮殿の奥、白い光の差す回廊で、僕を呼ぶ声に思わず足を止める。

中庭を彩る噴水の淵に、その人は腰をかけていた。

黄緑色の長い髪が揺れる。

細く長い指が水をすくう。なんて、美しい人だろう。

その姿を前にすると、胸の奥に絡みついていたものが、少しだけ緩む。

僕は思わず、帽子を脱ぎながら、近寄った。


「ラファエルさん」


手招きをされて、彼女の隣に腰掛けた。

噴水の水が跳ねて、顔を濡らす。

彼女の深緑の瞳が、僕を吸い込んだ。


「渡界者を拾ったんですってね。カマエルが心配してましたよ」

「……先程、叱られてきたばかりです」

「あら、彼はあれでも、あなたを大切に思っているわ」

「……それは、承知ですが」


もう一度、僕の名前を呼ぶ声がした。

沈みかけた頭が彼女の手のひらを受け入れる。

柔らかく、温かい感触に、思わず肩が跳ねた。心臓がさわさわして、落ち着かない。

僕の白い髪を撫でるたびに、なんだか昔の記憶が影を見せてくる。


こうして、頭を撫でてくれた。

もっと、大きくて、冷たくて、黒くて、

僕を最初に『エリア』と呼んだ――


「……大丈夫よ、ワイアット」


その声で、はっと我に返った。

心配そうにこちらを伺うラファエルと、目が合う。


「あなたは優しいわ。どんな天使よりもね。私がいうのだから、間違いないわ」


言葉をゆっくりと選んでくれる彼女に、小さくお礼がこぼれる。

頭を撫でていた手が離れて、暖かな心地よさだけが微かに残った。


「あなたは、いつも人の痛みに気づいてしまうのね」


また、彼女は水をすくう。

指の隙間から、ぽたりぽたりと雫が落ちる。

しばらくして、手のひらに残った水はほんの一滴にも満ちない量になってしまった。

まるで、今の僕とトオルみたい。


「気づいて、手を伸ばしてしまう。

それを、間違いだなんて、私は言わないわ」


噴水の水音が、静かに続く。

暖かな日差しが、胸に差し込んだ。


「守りたいと思ったのでしょう?それなら、それでいい」


心の奥に、ゆっくりと何かが沈んでいく。

楽になるのと、同時に、少しだけ、怖い。

もし、取りこぼした、あの雫のようになってしまったら。

想像するだけで、血の気が引いていく。


「……でも」


思わず、声が漏れた。


「でも、何?」

「……いえ」


言葉にしてしまえば、壊れてしまいそうだった。

僕はいつもそうだ。肝心な言葉が出てこない、臆病者なのかもしれない。

それでも、前に進むしかない。


「……無理に強くならなくていいのよ」


ラファエルはそう言って、もう一度、僕の髪に触れた。

撫でる、というより、確かめるように。


「守りたいと思った気持ちは、

 あなたがちゃんと生きている証でしょう?」


胸の奥が、きゅっと縮む。

彼女の優しさは、いつも僕の心を直接包み込む。


「間違えたら、また考えればいい。

 傷ついたら、戻ってくればいい」


深緑の瞳が、まっすぐに僕を映す。


「ここにいる限り、

 あなたは、ひとりじゃないわ」


「……はい」


それだけ。

それしか、僕は、言えなかった。


ラファエルの手が離れても、その温もりは、しばらく頭に残っていた。

帽子を被り直すことはできなかった。

守りたいものがある。

それは、とても尊いことであり、それと同時に、とても重い。


僕は、それが正しいと思ったから、トオルの手をひっぱた。

僕は、それでトオルを守ろうとした。

だけど、僕のせいで、トオルが僕の手のひらからこぼれ落ちたら。

トオルは、僕を責めるだろうか。

あの日、あの禁断の果実を、あの場所で、口にするはずだったトオル。

結局、僕の原罪に巻き込んでしまっただけなんじゃ――


それでも、一度守ると決めたからには、そう信じるしかない。


「ラファエルさん、ありがとうございます」

「いいのよ、ワイアット。仕事の邪魔をしてしまったわね」

「今日は昨夜の後始末だけなので」

「そう、あなたは働き者ね」


立ち上がり、ぐっと帽子を被る。

マントがひらりと僕の背を追った。

振り向いた先で、彼女は僕の顔を見ると、柔らかく微笑む。


「天使として、誇りがありますから」


そう言った僕の声は、とても真っ直ぐに飛んでいった。

日差しが目元を照らして、眩しくて目を細める。

一礼して、駆け足で仕事場に向かう。

その足取りは、とても軽い。

軍服の下に隠れる羽根が、羽ばたいたような気がした。


「あなたなら、きっと大丈夫よ、ワイアット」


――きっと、大丈夫。

その言葉を、胸の奥で、何度もなぞった。






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