15.職務
トオルと別れ、橋を渡り終わったあと、後ろを振り返った。川の向こう側で、黒い髪をしたトオルが北区に向かって歩いている。
昨日買ったばかりの服は、前来ていた暗い服より少しだけ明るい。でも、この世界では、まだまだ黒い。
彼がこちらを振り向かないことを確かめて、カバンから帽子を取り出した。
無理やり押し込んだので、シワが着いてしまって、これはまずいと手で引っ張る。
白い官帽は、すぐに元の形に戻った。
しっかり被る。
すると目元に影が落ちた。
この世界が変わる瞬間が、僕は好きだった。
背筋がぴんと伸びる気がするから。
僕の目元だけが暗くなって、周りは変わらずに明るいから。視界がはっきりして、遠くまで、よく見える気がする。
ただ、僕に集まる視線だけが、重たくのしかかるのは、少しだけ苦しい。
中央区、神々が住まう宮殿。
大きな門を通り、敷地内に入る。
美しく象られた彫像が並び、張り詰めた空気が痛い。
この場所にすごく興味を示していたトオルの顔を思い出す。
それほど、いい場所ではないよ。
「ワイアット殿」
呼ばれた方を思わず見る。
そこには、見覚えはあるが、思い出せない顔の男が立っていた。
腕章のマークを確認する。新人だ。
「どうした?」
僕が返事をするとは思っていなかったのか、どきりと肩をはね上げさせると、顔を染めた。
緊張がこちらにも伝わってきて、思わず苦笑いがこぼれる。自分もこのような時期があったのだろうか。
「お、俺は、あっ、わたしは今年度から配属になった、イネス・フロストと申します!」
「よろしく」
「あっ、あ、よろしくお願いします!」
右手を差し出すと、分かりやすい反応を見せた彼は、手が離れたあとも、しばらく握手をした右手を見つめていた。
「どうしたの?何か用かな」
「わっ!そうでした!失礼しました!」
右手をぎゅっと握りしめたイネスは、両腕を背中で組むと、背筋をぴんと立たせた。
動作が一つ一つ大袈裟な様子に、声が漏れそうになるが、何とか喉元で押さえつける。
彼が息を吸った。
「カマエル指揮官が、司令室でお待ちです。すぐ来るようにと」
すとんと、目元の影が、濃くなって、僕の笑顔が落ちた。
「例の件で、話が、あると……」
仰っていました。
僕の表情と共に、だんだん小さくなっていく声が、消える。あの話だ。と、息を吐いた。
なるべく、表情を戻す。
「わざわざありがとうね。イネスくん」
「い、いえ!それでは失礼します!」
深々とお辞儀をしてから、立ち去った彼を横目に、僕は足早に宮殿へと向かう。激しく鳴る鼓動を隠すように、深く深く、息を吐いた。
――――――――
コンコンコン
決して軽くない扉を叩く。長い廊下に音が響き渡る。
中からくぐもった声が聞こえたのを確認してから扉を開けた。大きな机に、背の高い椅子。そこに座る、長身の男が、僕の一挙一動を瞬きひとつ見逃さないと、目を細める。
帽子を脱ぎ、挨拶をして、また被り直す。
今度は、もっと深く。表情を見られないように。
机の上に、1枚の紙があることに気がつく。
そこに書いてある内容が、もう、何となく分かってしまった。
男は椅子に深く腰をかけたまま言う。
頭上から降り注ぐ、視線が、痛い。
「私情か、職務か。どちらだ」
驚くほど低い声だった。
それだけで、部屋の空気が一段階、冷える。
この人は、いつだってこうだったな。
帽子のつばに、指先が触れた。
ほんの一瞬、短く息を吐くしか出来なかった呼吸が、止まる。
「……」
沈黙。
そして、ようやく。やっとの思いで、口が開く。
自分の呼吸の音が、うるさい。
「……私情です」
「――結論から言おう」
考える素振りも見せずに、男は、淡々と続けた。
何を答えても、同じだったのか。
「この件について、神は君を裁かない」
一瞬、胸の奥が、緩んでしまった。
思わず、顔を上げ、カマエルの表情を見る。
「赦されたな」
相変わらず、彼の表情は変わらない。
だが、彼はその緩みを見逃さなかった。
「だが」
「それで終わりだと思うな」
机から立ち上がり、こちらに一歩、距離を詰める。
見下ろされることが、僕は、何よりも恐い。
この人は、いつも僕を、こうして叱りつける。
指先ひとつ動かすことが、できない。
「神が許すことと、正しかったかどうかは、別だ」
帽子の影の奥で、喉が鳴った。
「君は、知っていたはずだ。
あの人間を引き取れば、どうなるか」
視線が、真正面から突き刺さる。
「それでも、手を伸ばした。
それは勇気か?――それとも、甘さか」
問いではなかった。
決して、こちらの答えを求めていない。
冷や汗が、静かに流れ落ちる。
「私は、君に刃の持ち方を教えた。
だが、人を守りきる選択の“重さ”まで、教えきれていなかったらしい」
ほんの一瞬だけ、視線が揺れる。
動揺したからではない。そんなわけでは、けっして、
「次はない」
低く、確かに、言い切る。
とても、重たい言葉に、思わず、俯いた。
大理石の床の冷たさが、靴底から伝わる。
沈黙が、もう席を外せと訴えているようで、僕はたまらずに顔を上げた。
「……それでも、
あの時、手を伸ばしたことだけは、間違いだとは思えません」
なにも、何も返ってこなかった。
沈黙だけが続く。
反論は、いくらでも思いついた。
それでも、どれひとつとして、口にする資格がないことも、分かっている。
でも、それでも、後悔していないことだけは、この人にだけは、分かっていて欲しかった。
ゆっくりと椅子に戻っていくカマエルを見つめ、帽子を脱ぐ。
「……失礼します」
来た道を戻る。
閉じる前の扉の向こうで、彼の低い声が聞こえた気がした。振り向きはしない。だが、確実に。
短く、声色は変わらない。
尊敬する彼の声。
「――背負い続けろ」
ワイアット。
僕の名前を呼ぶ声が、扉が閉まる音と共に消えた。
長く続く廊下の、ずっと奥を見つめる。
拳を強く、握りしめた。
帽子を被り直し、今日の仕事場へと向かう。
なぜか、背中を、彼に押されている気がした。




