13.微差
エリアは、もう起きていた。
台所から聞こえる音が、昨日と同じ速さで流れてくる。
俺はそれを、ただ聞いていた。
ゆっくりとリビングに入る。閉じたドアの無機質な音が大きく響いて、視線が合う。
「おはよ」
そこには、いつも通りのエリアがいた。
「おはよう」
いつも通りの笑顔を、精一杯顔に貼り付ける。
だが、すぐに、美味しそうな匂いにつられ、ほころぶ。
テーブルに運ばれた朝食に、思わず腹の虫が鳴った。
赤いカップから湯気がたっている。
中を覗くと、そこには、たまごとチーズが米と混ざり合い、散らばったパセリの緑が黄色のご飯を飾っていた。
たまごとチーズのリゾット。
金色に輝くスープも着いている。
本当に、本当に、暖かくて、美味しい。
「……明日は俺が作ろうかな」
スープを飲み、暖かな息のまま呟いた。
目の前から小さく「え?」と聞こる。
「トオル……料理、できるの?」
「料理くらいできるよ」
「え?イメージできないけど」
「前はよく……たまに、やってたよ」
薄暗い、今にも消えそうな電球が付いた、冷たい台所を思い出す。備え付けの、部屋のほんとに一角に付いている、鈍い銀色の台所。
コンロと一応電子レンジだけ置いてあった場所。
詳細に思い出せるのに、何を作り、何を食べていたのか、モヤがかかるように頭を遮り、思い出せない。
あんなに苦しかったはずなのに、思い出そうとすればするほど、その苦しささえも薄れていく。
でも、飯を食べていたのは確かで。
じゃないと、それで、死んでいただろうから。
「まさかカップラーメンとか、買ったお弁当温めるとかじゃないよね?」
いじわるく歯を見せてエリアは笑った。
なんだか、急に、それらにお世話になっていたような気がしてきて、思わず乾いた声がこぼれた。
すると、そんな俺を見てエリアは行儀悪くスプーンをくるくると、指揮者のタクトのように振るう。
「それは料理って言わないよ」
「立派な料理だよ」
「ちがうね!」
「ちがわない」
きっと料理をするのが好きなのだろう。
カップラーメンなんて、ほとんど食べないのかもしれない。いつも、台所には、いろんな調味料や食器が置かれているから。エリアらしい。
「心配だから、今日の夕飯は一緒に作ろう」
「え?」
今度は俺の口から、小さくこぼれた。
目の前のエリアは、変わらずに笑っている。
「だって、不安だもん」
「不安ってなぁ」
「どこに何が置いてあるかも、教えてあげるからさ」
「それは助かるけど……」
笑顔は、昨日と同じ――のはずなのに。
ほんの一瞬だけ、何かを確かめるような視線が混じった気がした。
だがすぐに、気のせいだと思うことにして、俺は頷いた。
エリアは「決まり!」と頬を染め、その表情になんだか、気恥しい気もして、楽しみ……なのかもしれない。
「よーし!それじゃ今日も一日頑張るぞぉ。
トオルは?今日はどうするの?」
うーーん。
残ったコンソメスープが、最後まで美味しい。
この、底に具材が溜まっているのを、グイッと飲み干す感じ、嫌いじゃない。
余計な事も一緒に考えながら、さらに頭を捻った。
「どうしよう、かな」
なにも、でてこなかった。
「うーん、昨日は?どうしてた?」
「昨日は……買い物して、西区を散歩してた」
「あは!こっちなんもないでしょ!」
「なんにもない」
「ふは!」
食べ終えた食器を重ねながら、エリアの分もまとめる。
立ち上がり、スポンジを持ち洗剤を泡立てたあたりで、自分が無意識に洗い物していることに気がついた。
エリアはお礼を言いながら、まだ座っている。
泡が小さなシャボンになって、弾けて消えた。
「少しずつ、セレスティアを巡るのは?」
「……そういえば、ここと中央区の他に、東とか南もあるの?」
「南はないよ」
「あ、ないんだ」
「ヘイヴン・クロスが南にあるからね」
「あー、なるほど」
なんとなく、この大都市の形が分かってきたような気がする。
「南区」は、俺たち渡界者が最初に足を踏み入れるヘイヴン・クロス。
そこから天界の入口のように広がる「中央区」
橋を渡れば、畑や果樹園が続く、のどかな「西区」
そう考えると、俺がまだ行っていないのは――「東区」と「北区」だ。
「ここから近いのは北区かなぁ、歩いて行けるよ」
「東は遠い?」
「歩きじゃちょっときついかも」
「じゃあ今日は北区に行ってみようかな」
「それがいいね」
エリアは笑顔のまま、席を立ち上がる。
もう一度、俺にお礼を言ったあと、パタパタとどこかへ言ってしまった。しばらくして、歯ブラシを持ってリビングに戻ってきたので、慌てて食器を全てラックに片付ける。
並んで歯を磨いて、髪を整えて、リビングに戻る頃には、エリアはマントを羽織りカバンに手をかけていた。
笑顔が合わさり、なんだか心が揺れる。
ぱちり、
部屋の灯りが消された。
窓から差し込む日差しだけが照らす。
玄関の向こうに出る直前、なぜか一瞬だけ、足が止まった。理由は分からない。
エリアはもう前を向いていて、俺はその背中を追いかける。
「「いってきまーす」」
誰もいなくなったはずの家に、2人の声がしばらくの間こだまして、消えた。




