12.深閑
財布を取り出して、借りたカバンを元の場所に戻した。
チャックに着いたペガサスが、少しだけ揺れる。
暗いリビングに灯りをともし台所に入った。
手を洗いながら、ふと目に入った時計の針はもう夕飯時を指している。
洗われたまま、使われていない食器達を眺めて、
台所の灯りを消した。
なにも、食べる気には、ならなかった。
ソファにどっと座り、テレビのリモコンを手に取る。
現世と同じように、付いた。
適当に開いたチャンネルを見る。なにも、変わらない。
体の力を抜く。テレビの中で、アナウンサーが爽やかに笑っていた。
テレビの音だけが、部屋に流れる。
内容はほとんど頭に入ってこない。
アナウンサーが何かを読み上げ、画面の端で字幕が流れ、次の瞬間、別の話題に変わっている。
リモコンを置いたまま、ソファに沈み込む。
クッションが思ったより柔らかく、体がゆっくりと引きずり込まれていく。
ふと、時計を見る。
針は、さっき見た位置よりも確実に進んでいた。
――遅いな。
そう思ったあとで、はっとする。
待っているつもりはなかったはずなのに、無意識に帰宅の時間を測っている自分がいた。
台所の方へ視線をやる。
灯りは消したままだ。
洗われた食器が、そのまま静かに乾いているのが見える。
立ち上がり、棚からマグカップをひとつ取り出した。
白地に、淡い青の縁取り。
触ると、少しだけ冷たい。
水を入れようとして、やめた。
カップを持ったまま数秒立ち尽くし、結局、元の場所に戻す。
ソファに戻ると、テレビでは明るい音楽が流れていた。
笑い声が重なり、部屋の静けさを無理やり埋めているように聞こえる。
音量を、一段だけ下げた。
それでも、静かにはならなかった。
足だけを動かして、靴を脱ぐ。硬い音を立て床に落ちた。
横になり、沈んでいく。
音が、だんだんと、遠のいた。
――――――
カタ、カタリ、カタカタ、
小さな物音が耳に入る。
濁った声を出しながら、重いまぶたを持ち上げる。
落とされた照明に、いつの間にか消えているテレビ。
あれ、いつの間に消したんだっけ。
体を持ち上げた。
昼間の疲れで、節々が痛い。
ぼやけた目を擦る。ぱさりと、何かが床に落ちた。
目線を送る。
白いブランケットだ。もこもこの。暖かそうな。
あれ、こんなのかけたっけ。
テレビだって、消してない。ような。
頭を搔く。やはり、消してない。
「ぁ、」
小さな声が盛れた。
ぱちりと、目が合う。
「……おかえり」
白い。エリア。
「ただいま」
思わず時計を見る。
針はもう、日付を越えていた。
マントを脱ぎ椅子にかけるエリアは、今、帰ってきたようだ。こんな、時間に。
軍服の前ボタンをいくつか外し、ソファに座る。
静かに、重たい息が床に落ちた。
「ごめんね、起こしちゃったね」
「いや、いいんだ」
秒針が時間を刻む音だけが、響く。
「遅かったな」
「ちょっとね、立て込んじゃって」
「明日も仕事?」
「うん」
静けさに包まれる。
それと同時に、エリアから、知らない石鹸の香りが漂い俺の鼻をかすめる。
風呂に、入ったのだろうか。
でも、この家の石鹸は花の香りがしたはずだ。
優しく甘い、白い花の香りが――
「仕事、なにしてるんだ?」
案外すんなりと、言葉が飛び出た。
唐突な言葉に、エリアは少しだけ困惑した表情を見せると、ゆっくりと目を閉じた。
部屋の暗さで、エリアの顔に影が落ちる。
「ここを、守る、仕事かな」
それだけだった。
大きく、ぼやかされた気がする。
「……警察、みたいな?」
「まぁ、だいたいそう」
こんな、何も起きない、平穏な世界に?
いたとしても、こんな遅い帰宅になるだろうか。
セレスティアを守るだなんて。
それは、ため息が落ちるほど、つらい仕事なんかじゃ。
きっと、そんなわけ、ない。
「……」
何か、言わなきゃいけない気がした。
でも、それが何か分からなかった。
聞いてしまえば、
ここにいられなくなるような気がして。
俺は、何も言わなかった。
そんな俺を見つめたエリアは立ち上がり
「先に寝るね」と呟いた。
ドアが閉まる音が、思ったよりも大きく響いて。
ソファに残った、知らない石鹸の香りが、そこにただ、残り続けた。胸の奥が少しだけ、ひくりと鳴る。
不思議と、いやだとは、思えなかった。
音が完全に無くなって、俺はようやく重たい体をあげた。




