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1.りんご



死んだ。


天国というものは本当にあるのだと、あたりの景色を呆然と見つめた。

穏やかな春のような青空、都合がいいくらい心地良い風。鳥のさえずり、すみきりすぎた小川のせせらぎ、楽しそうな笑い声。

死んだ恐怖など消え去ってしまう。

不安になるような物が全て取り除かれたような、絵に書いた楽園。


本当に、俺は死んだんだ。


俺の中の知識では「三途の川を渡り閻魔に裁かれ、行き先が決まる」と思っていた。

長い道のりがあるのだと。

だがそれは所詮、虚構の言い伝えだったのだろう。

死んだら楽園に行く。

きっと、そうなんだ。


どこまでも続く緑に溶け込むように、とりあえず足を動かした。どこに行けばいいのか、何をすればいいのか、そんなものは分からない。とにかく自由に、心ゆくままに、地獄のような現世から時離れたのだから。もう、縛られなくていい。

俺でいればいい。


しばらく歩いていると、この楽園に自分一人ではないことに気がついた。

木陰でひなぼっこをしているおじさん。川に足をつけ楽しそうに笑っている子供。動物も多い。

それぞれが思い通りに時を過ごす、それが楽園なのか。


ならば、と俺は目線の先にある丘を見つめた。

なだらかな丘の上には遠目からでも分かる立派な大木が辺りを見守るようにどっしりと立っている。

生きているみたいだ。

芽を咲かすこともなかった自分とは大違いだな、なんて。

ゆっくりと大木に近づくと、深い緑の中につやりと光る赤い実があることに気がついた。



「りんごだ」



死んでから初めて喉を震わせる、くすぐったい。


そういえば最近食べていなかったな、男の一人暮らしで果物を買うなんてそうする事じゃないが、実家ではよく食べていた気がする。

母さんが皮を向いてくれて、赤が淡い黄色に変わる。

男兄弟だったからかりんごが兎に化ける事はなかった。


1つ、手の届いたりんごに触れてみる。

とても美味しそうだ。

だが勝手に採っていいのか分からない。

美味しそうなりんご。

かのアダムとイブもこうして禁断の果実を手にしたのだろうか。禁忌だと分かっていも食べたかった2人の気持ちがなんだか理解できるような気がした。


力を込める。枝がしなり、さらに力を込める。


パツンッ。


葉が揺れながら元の位置に戻る。手の中に収まった赤いりんご。丸かじりするだなんて初めてだ。

赤い実のままかぶりつく。

歯が触れた。瞬間。


「ぎやああぁ!!」


甲高い悲鳴が頭上から降ってきた。


ガサガサ!バサバサ!バタン!

枝が揺れ、葉が落ち、白い何かが木の上から盛大に落ちたのだ。穏やかだった空気が一瞬で張り詰める。

いや、俺だけが張り詰めた。

口の中に入るはずだったりんごが地面に落ち、転がる。


「痛って、てて、て」


落ちてきた白い人間。

白い髪に白いスーツ――いや、軍服のようにも見える。

アニメでよく見るやつだ。

だが肌の色にも自然に溶け込む髪の色は地毛のようで、違和感はない。


「あの、大丈夫ですか……?」


どの高さから落ちてきたのかは分からないが、 俺の声に気つくと、白い人は腕を庇いながら顔を上げた。


青だ。


白い人の瞳は、驚くほど美しい青色をしていた。

冬の夜空みたいな色。赤いりんごとは正反対。

白くて青い人は俺の顔をようやく捉えると、頬を赤く染めた。白くて、青くて、赤い。


「うわあ!見られてた!恥ずかしい!」


ずんぶん中性的な声だ。

服装や雰囲気からして、俺よりもいくつかは若い。

青年というより少年に近いような。


「えっとね、大丈夫!怪我なし!」


白い人は立ち上がる。やはり自分より少し小さい。

はらりと髪が風に揺れる。俺は瞬きをして、ようやく口を開いた。


「それなら…良かったです」

「うん!心配ありがとう!」

「木の上でなにしてたんですか?」

「君と同じだよ」


どこからか取り出したりんごを俺に見せ、にへへと笑う。

ずいぶんとよく表情が変わる人だ。それに綺麗な顔立ちをしている。俺は先程から舐めるような視線を送っていたことに気が付いて慌てて目線を上に送った。

隙間から木漏れ日が落ちている。


「なんでわざわざ、上の方を?」

「特別なりんごを探してたんだ」

「特別なりんご?」

「そう、1番赤くてつやつやでみずみずしい、特別なりんご、それでアップルパイを作るんだ」

「それは確かに、美味しそうですね」


そんな特別なりんごをようやく見つけたと思い手を伸ばしたら、足を滑らせて落ちたらしい。

その手の中にあるりんごは、この人にとっての"特別なりんご"なんだな。


「そうだ!今から作るからさ、君もどう?」

「え?」

「今日は久しぶりの非番なんだ!君の摂ったりんごも使おう」


そう言って丘の下を指さした。

いつの間にかそこまで転がっていたりんごは、小さくて赤い丸にしか見えない。地面を転がったが、きっと赤くてつやつやでみずみずしくて、俺の"特別なりんご"のままなのだろう。

深く考えず首を縦に振った。


「さあ、それじゃあ行こう!」

「どこに?」

「僕の家!ほらほら早く」

「えぇ?」


小さな手が俺の背中を押す。

その力強い力に少し驚く。押されるままに足を踏み出した時だった。


「こらぁー!!またお前かぁー!!」


どこからか大声が響く。

反対側の麓から白い髭のおじいさんが片腕を振り上げて、ノシノシと登ってくる。俺たちに怒っている。いや、“またお前”?


「やべっ」


白い人が青ざめる。どうやら怒られているのはこの人のようだ。いや、俺も巻き込まれてる?


「おい!まてぇ!!」

「うわわ!行くよ!ほら!」

「え、ちょっと……!」


バッと俺の手を掴むと、白い人は逃げるように丘を駆け下りた。緩やかな丘でも走ると足が絡む。

運動不足の俺をよそに、白い人は軽々と駆け降りながら落ちていた俺のりんごまで拾い上げた。


にこりと横顔が笑い、赤いりんごを俺へと投げる。

弧を描き、手の中に収まる。


「良いりんごだね」


きらりと青い瞳が光った。

その光が俺の瞳も照らした気がして、瞬きをした。

背後からまだ怒声が聞こえるが、きっとすぐに遠ざかるだろう。俺はりんごを見つめた。


赤い、つやつやで、みずみずしい、特別なりんご。

呼吸が乱れる。でも誰かと全力で走るなんて、いつぶりだろう。


「ありがとう!」


気が付けば俺は笑っていた。





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