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龍の傳人―光と闇の羅針盤(青木家サーガ第3作)  作者: 光闇居士


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エピローグ 光と闇の羅針盤

“The future belongs to those who believe in the beauty of their dreams.”

(未来とは、その夢の美しさを信じる者たちのためにある)

– Eleanor Roosevelt/エレノア・ルーズベルト

(語り部・母 京海)

鎌倉の、午後の陽光は、蜂蜜のようにとろりとして、庭の若葉の上で、きらきらと踊っています。私の腕の中では、小さな命が、すぅ、すぅ、と、この世で最も穏やかな寝息を立てています。義成と、由紀さんの、初めての子。私の、初めての孫。あきと名付けられたこの子は、その名の通り、一点の曇りもない、光そのもののような存在です。

縁側で、私の隣に座る由紀さんが、淹れてくれたばかりのほうじ茶を、そっと差し出しながら、尋ねました。

「お義母さん。義成さんは…赤ちゃんの時も、こんなふうに、穏やかに眠る子だったのですか?」

その、何気ない問いに、私の記憶は、遠い、遠い昔へと、一瞬で、遡ります。

…あの子はね、由紀さん。2,500グラムという、本当に小さな体で、生まれてきたのですよ。1977年の冬、上海。あの、紅房子こうぼうし病院でね。その日、私の前に、12人もの妊婦さんが、次々と、女の子を産んで。助産師さんたちも、もう今夜は女の子の日だね、なんて笑っていたくらい。そして、日付が変わる、ほんの数分前。まるで、何かを、待ちかねていたかのように、あの子は、この世に、産声を上げたのです。その日、あの病院で生まれた、唯一の、男の子でした。

私は、ずっと、そう思っているの。あの子は、私の大切な、小さな船頭さんなのだ、と。一度は、三途の川の向こう岸に、渡りかけてしまった、か細い魂。それが、必死に、必死に、この世へと漕ぎ戻り、先に生まれた12人の、女の子という名の乗客たちを、無事に、現世の岸へと渡してから、ようやく、自分も、その岸に、よろよろと、登りあがってきた…そんな、不思議な子。

無理もありません。私は当時、党のために、人民のためにと、信じて…ううん、信じ込まされて、不毛の土地で、新しい中国の農地を開拓する、重労働に従事していました。来る日も来る日も、泥にまみれて、体を酷使して。そのせいで、義成の前に、お兄ちゃんとなるはずだった子を、そして、その後にも、弟となるはずだった子を、流してしまった。だから、義成は…あの子だけは、神様が、仏様が、私の、あまりにも惨めな人生を、憐れんで、残してくださった、たった一つの、運命の子。私の、すべてでした。

…そう。だから、あの子が、あの日本の大企業を辞め、自分の道を歩き始めると言った時も、私は、驚きはしませんでした。心配は、しましたけれどね。ええ、今でも、毎日、胸が張り裂けそうなほど、心配していますよ。でも、あの子は、そういう宿命さだめの子なのです。穏やかな、港の中に、ずっと留まっているような船ではない。誰も、見たことのない、大海原へ、たとえ、それが、どれほどの、嵐の海であったとしても、漕ぎ出していかなければ、ならない船頭さんなのだと、私は、ずっと前から、知っていましたから。

そして、彼は、この12年間…本当に、長く、暗い、嵐の海を、たった一人で、航海してきたのですね…。

あの子が、中国で、何をしていたのか。その、すべてを、私は知りません。あの子も、決して、語ろうとはしないでしょう。でもね、母親には、わかるのです。電話口の、声の、ほんの僅かな、色の違いで。時折、日本に立ち寄った時の、その、瞳の奥に宿る、光の、揺らぎで。

あの子は、冷たい、仮面を、被っていました。金と、権力と、そして、堕落という名の、分厚い仮面を。あの子の、優しかった瞳が、まるで、すべてを凍らせてしまう、深い、深い、湖のようになっていくのを、私は、ただ、見ていることしか、できなかった。

あの子は、父親である、楡生ゆうせいの、宿命を、別の形で、なぞっていたのかもしれません。楡生もまた、日本人と、中国人という、二つの、アイデンティティの狭間で、一生、苦しみ、彷徨い続けた人でした。義成は、その父の「系譜」を受け継ぎ、光と、闇という、新たな、二つの世界の境界線上で、自分の、魂の、置き場所を、探していたのでしょう。

でも、あの子は、ただ、堕ちていったのでは、ありません。私は、それだけは、信じています。あの子は、戦っていた。彼が、その、心の奥底で、最も、憎み、そして、憐れんでいた、巨大な、何かと。それは、かつて、私や、楡生の、青春と、尊厳を、無残に、踏みにじっていった、あの、理不尽な、システムそのものだったのかもしれません。

あの子は、その、怪物の、懐に、飛び込むために、自らも、怪物の、仮面を、被るしか、なかった。

…そして、どれほど、苦しかったことでしょう。どれほど、孤独だったことでしょう。

あの子の、心の中には、ずっと、一つの、羅針盤が、あったはずです。

それは、光と、闇の、両方を、指し示す、壊れた、羅針盤。

片方は、中国という、彼の、ルーツであり、同時に、彼の魂を、蝕む、巨大な「闇」を、指し示す。

そして、もう片方の、針は…いつも、か細く、震えながらも、決して、その方向を変えることなく、一つの「光」を、指し続けていた。

それは、かつて、あの子を、絶望の淵から、救い出してくれた、李殷さんという、少女の、記憶の光。

そして、今、あの子の、隣で、静かに、微笑んでいる、あなたという、由紀さん、あなたの、光。

ふと、庭の方に、目をやると、義成が、アパートから、帰ってきて、こちらに、歩いてくるところでした。その手には、由紀さんの好きな、ケーキの箱が、提げられています。

彼の顔には、もう、あの、人を寄せ付けない、冷たい仮面は、ありません。上海の、夜の、支配者の、顔でもありません。

ただ、少し、不器用に、そして、照れ臭そうに笑う、一人の、夫であり、そして、父親の、顔が、そこにありました。

ああ…神様。

ありがとうございます。

私の、小さな船頭さんは、ようやく、帰ってきたのですね。

嵐の海を、渡り切り、地獄の、淵を、覗き込み、そして、数多の、救われぬ魂の、声なき声を、その、小さな、背中に、背負いながら、それでも、彼は、帰ってきた。

彼が、守りたかった、たった一つの、港へ。

この、穏やかな、光の中へ。

楡の葉は、大海を渡り、この日本の地に、根を下ろしました。

路の先に、輝いていた、金色の星は、時に、その光を、見失いかけながらも、私たちを、照らし続けてくれました。

そして、その、すべてを受け継いだ、龍の傳人わがこは…。

今、ここにいます。

彼の、聖戦は、終わったのです。

ううん、違うわね。

本当の、戦いは、これから、始まるのかもしれない。

この、ささやかで、かけがえのない、光を、守り抜く、という、最も、気高く、そして、最も、困難な、聖戦が。

でも、もう、大丈夫。

あの子の、羅針盤は、もう、決して、迷うことはないでしょう。

なぜなら、その針が、指し示す場所は、もう、たった一つしか、ないのですから。

腕の中の、あきが、ふ、と、小さな、寝息と共に、微笑んだ。

ああ、見て。

新しい龍の傳人が、今、この光の中で、息吹を始まろうとしています。



~おわり~


      

挿絵(By みてみん)

最後の第4作 『奈落の龍』へ つづく・・・


【光闇居士】


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