3. 新たな航路
義成の意識が、現在の面接室へと戻ってくる。
彼の脳裏を駆け巡った数々の光景と感情の奔流は、わずか数十秒の出来事だった。しかし、彼の表情には、一つの時代を生き抜いたかのような、深い陰影が刻まれていた。
彼は、まっすぐに人事部長の目を見据え、静かに答えた。
「私がアメリカで学んだ最も大きなことは、理想だけでは、人も国も生きてはいけないという、厳しい現実でした。自由や民主主義という美しい理念も、人々の生活と安全が保障されていて、初めて成り立つものです。あの日、僕は、自分が立つべき場所は、理念の上ではなく、現実の大地の上なのだと痛感しました」
彼の言葉には、奇妙な説得力があった。
「僕には、日本で守るべき家族がいます。十二年間、異国で必死に働き、僕を育ててくれた両親がいます。彼らに、安定した生活と、日本人としての確かなアイデンティティを与えたい。それが、今の僕にとっての、何よりも優先すべき現実です。アメリカに残って夢を追いかけるのではなく、日本で地に足をつけ、社会人として結果を出すこと。それこそが、今の僕にとっての『アメリカン・ドリーム』なのです」
言い切った。面接室には、再び深い沈黙が支配した。
やがて、人事部長の隣に座っていた、切れ者そうな企画部長らしき男が、身を乗り出してきた。
「面白い…。君のような人間を、我々は探していたのかもしれない」
男は、テーブルの上に置かれた一枚の企画書を指さした。
「義成君、君はショートメッセージサービス、いわゆるSMSを知っているかね?」
「はい。アメリカの友人たちとは、頻繁に利用していました」
「我々は今、中国での新しいビジネスを計画している。具体的には、中国東北地方の移動体通信事業者と提携し、SMSを利用した広告配信サービスを立ち上げようとしているんだ。だが、社内には中国のビジネス文化とIT技術の両方に精通した人間がいない。君なら、このビジネスをどう見る?」
試すような、挑戦的な視線。
義成は、一瞬だけ目を閉じて思考を巡らせた。そして、ゆっくりと口を開く。
「それは、広告ビジネスの枠を超えた、巨大な可能性を秘めていると思います」
その声は、確信に満ちていた。
「2001年12月、中国はWTOに加盟します。これから、中国経済は爆発的な成長を遂げる。それに伴い、携帯電話は富裕層のステータスシンボルから、一般大衆の必需品へと、急速に普及していくでしょう。数億人が、手のひらの上に情報端末を持つ時代が来る」
義成は、立ち上がってホワイトボードに向かってもいいかと尋ね、許可を得ると、そこに淀みなく中国の地図を描き始めた。
「ショートメッセージは、単なる広告媒体ではありません。それは、人と人とのコミュニケーションのインフラそのものです。そのインフラを、初期段階で握ることができれば、膨大な個人データと、世論を動かす力を持つことになります。例えば、ユーザーの属性に応じてクーポンを配信する。特定の地域に、政府の望む情報を流す。あるいは…」
彼はそこで言葉を止め、意味ありげに面接官たちを見た。
「あるいは、国家が望まない情報を、フィルタリングすることも可能になる」
その言葉に、面接官たちは息を飲んだ。この若者は、ビジネスの可能性だけでなく、その裏側にある権力構造と、それがもたらす光と闇までを、瞬時に見抜いていた。
「必要なのは、日本の技術と資金、そして、中国共産党の地方政府との強固なコネクションです。彼らにとって、このビジネスが単なる金儲けではなく、民衆をコントロールするための有効なツールであることを理解させられれば、道は開けるはずです」
企画部長は、興奮を隠せない様子で前のめりになっている。人事部長は、腕を組んだまま、しかしその目の奥に満足げな光を浮かべていた。
彼らは、見つけたのだ。就職氷河期という瓦礫の中に埋もれていた、規格外のダイヤモンドの原石を。いや、原石ではない。すでに研ぎ澄まされ、自らの輝きを放つ準備ができた、若き龍を。
「…わかった。もういい」
人事部長が、静かに言った。「採用だ。来年の四月から、君の席を用意しておく」




