第十四章:龍の聖戦(上)― 奈落の底より 第一章:空白の二ヶ月
“The only thing necessary for the triumph of evil is for good men to do nothing.”
(悪が勝利するために必要なのは、善人が何もしないことだけである)
– Edmund Burke/エドマンド・バーク
第一章:空白の二ヶ月
2006年、夏。上海は、灼熱地獄だった。アスファルトが陽光を照り返し、空気が陽炎のように揺らめく。だが、その、街を覆う熱気でさえ、青木義成がこの二ヶ月間、耐え忍んできた「地獄」の熱さに比べれば、涼風のようなものだった。
彼は、解放された。
河北省の女王・李霃帘が、そのパトロンである王書記に進言し、王書記が、その絶大な政治力を行使して、中央規律検査委員会の若き野心家・董苅に、圧力をかけた結果だった。
董苅は、渋々、義成を解放せざるを得なかった。だが、その瞳には、獲物を逃した猛獣のような、屈辱と、復讐の光が、爛々と燃えていた。
解放された義成が、最初に向かった場所は、香港でも、日本でもなかった。彼は、まるで、巣に帰る傷ついた獣のように、上海の、ウォルドーフ・アストリアの、あのスイートルームへと、戻ってきた。
そして、彼は、ただ一人、癒しの女神・王麗紅だけを、部屋に呼んだ。
「…おかえりなさいませ、青木様」
麗紅は、部屋に入ってきた義成の姿を見て、一瞬、息を飲んだ。だが、彼女は、決して、驚きの表情を、見せなかった。
義成は、痩せていた。頬はこけ、その肌は、陽の光を浴びていない、不健康な青白さに、覆われている。だが、それだけではなかった。彼の、その、鋼のように鍛え上げられていたはずの、肉体の、至る所に、生々しい、痣や、火傷の痕跡が、刻まれていたのだ。
「…酷い、お顔…」
麗紅は、そう言うと、彼の前に、静かに跪き、その、汚れた靴を、脱がせ始めた。
「麗紅…」
義成は、か細い声で、彼女の名を呼んだ。それが、彼にできる、精一杯のことだった。
「何も、仰らないでくださいまし」
麗紅は、彼の言葉を、遮った。「今は、ただ、お体を、お休めください。あなたの、龍は、ひどく、傷ついておいでです。私が、すべて、癒して差し上げますから」
その日から、数日間。麗紅は、つきっきりで、義成の、心と、体の、治療にあたった。
彼女は、決して、彼に、この二ヶ月間、何があったのかを、尋ねなかった。
だが、彼女には、わかっていた。彼の、その、無数の傷跡が、何を物語っているのかを。
電気ショックの、火傷の痕。
指の爪の間に、竹串を刺された、痕跡。
長時間、同じ体勢で、吊るされていたことによる、関節の、異常なまでの、硬直。
そして、何よりも、彼の、瞳の奥に宿る、光の、完全な、消滅。
それは、もはや、闇ですらなかった。ただ、すべてを、諦観し、何も、映さない、絶対的な「虚無」。
麗紅は、泣かなかった。
彼女は、ただ、黙々と、自らの、神の指に、祈りを込めて、彼の、傷ついた肉体を、マッサージし続けた。
特殊な薬草を、配合した、温かいオイルで、彼の、血の巡りを、蘇らせる。
凝り固まった、筋肉と、心の、両方を、解きほぐしていく。
そして、夜は、自らの、母性そのもののような、温かい体で、悪夢にうなされる彼を、ただ、黙って、抱きしめ続けた。
彼女は、知っていた。
彼を、本当に、癒すことができるのは、言葉ではない。ただ、人の、肌の、温もりだけなのだ、と。
一週間が、過ぎた頃。
義成は、ようやく、人間らしい、食事を、口にすることが、できるようになった。
そして、彼は、ぽつり、ぽつりと、語り始めた。
麗紅にだけ。
あの、地図にない、「黒監獄」での、日々を。
終わりのない、尋問。
睡眠を、与えられない、拷問。
肉体的な、痛みよりも、辛かったのは、精神的な、屈辱だった。
董苅は、彼に、「自白」を、強要した。お前は、日本の、スパイだろう、と。お前の、背後には、誰がいるのだ、と。
義成は、最後まで、沈黙を、守り抜いた。
彼は、ただ、青木義成という、一介の、投資家を、演じ続けた。
その、鋼鉄の、意志の前に、董苅の、苛立ちは、頂点に達した。そして、拷問は、日に日に、エスカレートしていった。
だが、義成の心は、折れなかった。
なぜなら、彼の心は、もはや、彼一人の、ものでは、なかったからだ。
彼の、沈黙は、彼が、これまでに関わってきた、すべての人々を、守るための、唯一の、盾だった。
佐藤を、祖苑を、そして、彼の、紅顔知己たちを。
彼は、その、盾となるために、自らの、人間としての、尊厳を、一つ、また一つと、捨てていった。
痛みを感じなくなった。
恐怖も、感じなくなった。
ただ、すべてを、無感情に、受け入れる、一つの、肉の塊と、なった。
それが、彼が、生き延びるための、唯一の、方法だった。
「…僕は、もう、人間じゃないのかもしれないな」
義成は、自嘲するように、笑った。
「いいえ」
麗紅は、彼の、その、傷だらけの頬を、両手で、優しく、包み込んだ。「あなたは、誰よりも、人間らしい方です。でなければ、これほどの、痛みを、その、一身に、背負うことなど、できはしません」
彼女の、瞳から、一筋の、涙が、こぼれ落ち、彼の頬を、濡らした。
その、温かい、一滴が、義成の、凍てついていた、魂の、奥深くに、じんわりと、染み渡っていく。
彼は、その夜、久しぶりに、悪夢を見ずに、眠ることができた。
麗紅の、腕の中で。
龍は、奈落の底から、生還した。
だが、その魂には、決して、癒えることのない、深い、深い、傷跡が、刻み込まれていた。




