2. 桜の下の約束
千鳥ヶ淵の、桜は、満開だった。
薄紅色の、雲海の下を、義成は、一人、ゆっくりと、歩いていた。水面に、舞い散る、花びらが、まるで、祝福の、紙吹雪のようだ。
彼は、待ち合わせの、ボート乗り場の、近くのベンチに、腰を下ろした。
約束の、時間は、もう、すぐだ。
彼の、心臓が、少しだけ、早く、鼓動しているのを、感じた。それは、この、12年間で、忘れていた、穏やかで、温かい、高揚感だった。
彼が、彼女と出会ったのは、一年前の、天津だった。
李霃帘との、緊張を強いられる、交渉の合間。彼は、気分転換に、一人、天津の、古い、租界時代の、街並みを、散策していた。
そこで、彼は、道に迷い、途方に暮れている、一人の、日本人女性に、出会った。
「あの…すみません。五大道に、行きたいのですが…」
その声は、少し、不安げで、しかし、凛とした、響きを持っていた。
彼女が、中畠由紀だった。
日本の、中堅化学メーカーに勤める、彼女は、技術者として、天津の、合弁工場に、短期出張で、来ていたのだ。
三十歳を、少し過ぎたくらいだろうか。派手さはない。化粧も、薄い。だが、その、大きな、黒い瞳は、真っ直ぐで、知性と、そして、何よりも、曇りのない、誠実さを、感じさせた。
義成は、彼女を、目的の場所まで、案内してやった。そして、そのまま、成り行きで、一緒に、天津の街を、観光することになった。
彼女は、義成が、何者なのか、一切、聞かなかった。ただ、彼の、博識と、時折見せる、寂しげな表情に、興味を抱いているようだった。
そして、義成は。
彼は、彼女の中に、抗いがたいほどの、既視感を、覚えていた。
その、真っ直ぐな、瞳。その、穏やかな、物腰。そして、ふとした瞬間に見せる、はにかんだような、笑顔。
その、すべてが、彼の、魂の、最も、深い場所に、封印されている、一人の女性の、面影と、香り、そのものだった。
李殷。
「由紀さん」
別れ際、義成は、彼女に、言った。「来年の春、もし、僕が、日本に、帰ることができたら…一緒に、桜を、見ませんか」
「…え?」
「千鳥ヶ淵の、桜が、見たい。あなたと、一緒に」
それは、あまりにも、唐突な、約束だった。
由紀は、驚きながらも、その、真摯な、彼の瞳を見て、頬を染めながら、小さく、頷いた。
「…はい。もし、ご縁が、あれば」
そして今、その、約束の日が、来たのだ。
「…青木さん?」
背後から、懐かしい、声がした。
振り返ると、そこに、少し、緊張した面持ちの、由紀が、立っていた。春らしい、淡い色の、ワンピースが、彼女に、よく似合っていた。
「…由紀さん。待たせたかな」
「いえ、私も、今、来たところです」
二人の間に、少しだけ、ぎこちない、しかし、心地よい、沈黙が、流れた。
「…本当に、帰って、来られたのですね」
「ああ。約束だからな」
義成は、立ち上がると、彼女に、手を差し伸べた。
「行こうか。ボートが、待っている」
二人は、手漕ぎのボートに乗り、桜のトンネルの下を、ゆっくりと、進んでいった。
水面に、空と、桜が映り、世界が、すべて、薄紅色に、染まっている。
由紀は、その、幻想的な、美しさに、言葉を、失っていた。
義成は、ただ、黙って、オールを漕いだ。
そして、目の前で、幸せそうに、桜を見上げる、由紀の横顔を、じっと、見つめていた。
この、穏やかな、時間。
この、何の、駆け引きも、偽りもない、空間。
これこそが、彼が、この、12年間、心の底から、求め続けていた、ものだったのかもしれない。
「…綺麗…」
由紀が、ぽつりと、呟いた。
「ああ。綺麗だ」
義成は、答えた。
だが、彼の視線は、桜ではなく、由紀の、その、輝くような、笑顔に、注がれていた。
彼は、この笑顔を、守りたいと、心の底から、思った。
この、平凡で、しかし、かけがえのない、幸福を、二度と、手放したくない、と。




