第十三章 龍の系譜 第一部:龍、故郷へ還る 1. 羽田の光
“There are things that we don't want to happen but have to accept, things we don't want to know but have to learn, and people we can't live without but have to let go.”
(起こってほしくないが、受け入れねばならないことがある。知りたくないが、学ばねばならないことがある。そして、なしでは生きられないが、手放さねばならない人がいる)
– Nancy Stephan, The Truth About Butterflies: A Memoir
ナンシー・ステファン
第一部:龍、故郷へ還る
1. 羽田の光
2014年、春。
東京の空は、突き抜けるような、どこまでも優しい青だった。
羽田空港の到着ロビー。その、自動ドアが、すう、と開いた瞬間、青木義成の全身を、懐かしい、乾いた空気が包み込んだ。それは、大陸の、欲望と、謀略と、そして血の匂いが染みついた、重い空気とはまったく違う、秩序と、平穏と、そして、どこか無関心なほどの静けさに満ちた、日本の空気だった。
「……」
義成は、ただ、その場に立ち尽くし、深く、深く、息を吸い込んだ。肺が、浄化されていくような、感覚。12年ぶりだった。心の底から、何の警戒も、何の仮面もつけずに、ただ「呼吸」ができたのは。
36歳。かつて、若き龍と呼ばれた男の、その貌には、年齢以上の、深い陰影が刻まれていた。だが、その瞳の奥に宿っていた、絶対零度の光は、今は、鳴りを潜めている。あるのは、巨大な嵐を乗り越えた船乗りのような、深い疲労と、そして、すべてを受け入れた者の、静かな諦観だけだった。
彼は、何も持っていなかった。
手には、一つの、小さなボストンバッグだけ。その中に入っているのは、数枚の着替えと、一冊の、日本のパスポートだけだ。
彼が、この12年間で、中国大陸に築き上げた、すべてを。
億単位の金が眠る、いくつもの、隠し口座。上海や、北京の、超一等地に持つ、いくつもの、高級マンション。彼の一声で、動く、数多の、人脈。そして、彼の夜を彩った、女たち。
その、すべてを、彼は、あの国に、根こそぎ、置いてきた。捨ててきたのだ。
それは、壮絶な戦いの、果てだった。
中国共産党の、最高権力者の椅子が、胡錦濤から、習近平の手に渡って、一年余り。新しい皇帝は、「虎も蠅も叩く」というスローガンの下、凄まじい、反腐敗キャンペーンを開始した。それは、国家の綱紀粛正という、大義名分の下に、自らの政敵を、一人、また一人と、合法的に、抹殺していく、血の粛清だった。
義成が、手駒として、そして、最後には、共犯者として、深く関わった、河北省の女帝・李霃帘と、そのパトロンであった、王書記も、その後に継いだ張書記も、その嵐に、飲み込まれた。彼らは、習近平の、敵対派閥に属していた。そして、彼らの、長年にわたる、レアアース密輸と、汚職は、格好の、粛清の口実となった。
皆が、失脚し、党の規律検査委員会によって、「処理」された。その、命運の詳細は、もはや、外部の人間には、知る由もない。
義成は、彼らの、あまりにも、あっけない、終焉を、冷徹に、見届けた。
彼は、李霃帘という、最強の駒を、失った。
だが、その駒を失う前に、彼は、彼女を利用して、最後の、そして、最大の「仕事」を、成し遂げていた。
2010年。日本で、民主党政権が誕生し、尖閣諸島問題で、日中関係が、急速に、冷却化した、あの時。中国政府は、報復措置として、日本の、ハイテク産業の、生命線である、レアアースの、対日輸出を、全面的に、停止した。
日本の、産業界は、大パニックに陥った。
その、水面下で、動いたのが、義成だった。
彼は、李霃帘と、張書記の、密輸ルートを、逆手に取り、彼らが、横流ししていた、最高品質の、レアアースを、シンガポールや、マレーシア経由で、日本の、ダミー会社を通じて、「密輸入」するという、離れ業を、やってのけたのだ。
それは、日本の、国家的な危機を、救う、大きな、貢献だった。
そして、それは、彼が、この、出口のない、スパイゲームから、手を引くための、完璧な「手土産」ともなった。
彼は、佐藤を、香港に呼び出した。
「…もう、潮時です。僕は、降ります」
「……」
「李霃帘と、張書記は、消えた。僕が、あなた方に、提供できる、ルートも、もうない。だが、僕は、最後の、約束は、果たした。これで、僕を、自由にしてほしい」
佐藤は、何も言わずに、ただ、彼の、報告書を、読んでいた。そこには、レアアース密輸の、詳細な、オペレーションと、そして、李霃帘が、義成名義で、海外に、移転させていた、数百億米ドルという、莫大な、不正資金の、全リストが、記されていた。
「…この金は、どうする?」
「あなた方への、退職金です。好きに、使ってください。国庫に、戻すなり、あなた方の、裏金に、するなり」
「…わかった。約束は、約束だ。君の、過去の記録は、すべて、消去する。君は、今日から、ただの、民間人だ。君の、余生は、我々が、保証しよう」
「一つだけ、条件がある」
義成は、言った。「僕が、このゲームで、個人的に得た、資産。それは、僕の、パートナーに、すべて、譲渡する。彼女は、僕の、すべての、汚い仕事を知る、唯一の、共犯者だ。彼女の、安全だけは、絶対に、保証してほしい」
それと、義成は佐藤へ一枚の光ディスクを渡した。
「これは?」
「これは、人類の存続にかかわる記録です。日本が独自に所持するか、世界中へ示されるのかは、あなたたちに任せます。」
謎めいた言葉を義成は佐藤へ残した。
佐藤は、少し考えた後、静かに、頷いた。
それが、義成と、国家との、最後の、会話だった。
彼は、その足で、林祖苑に、会った。
そして、彼が持つ、すべての、個人資産の、管理権を、彼女に、委ねた。
「…本当に、いいの?これだけの金があれば、あなた、世界のどこででも、王様のように、暮らせるのよ」
祖苑は、寂しげに、笑った。
「僕には、もう、必要ない。これは、君への、感謝の、気持ちだ。そして、僕の、わがままを聞いてほしい。この金の一部を、楊楊、無宣、小黎、そして、王麗紅に、彼女たちが、一生、不自由なく暮らせるだけ、分け与えてやってくれないか」
「…わかったわ。あなたの、最後の、わがまま、確かに、聞き届けた」
祖苑は、涙を、見せなかった。それが、彼女と、義成との、別れの、作法だった。
彼は、誰にも、告げずに、中国大陸を、後にした。
そして今、彼は、日本の、春の、光の中に、立っている。
すべてを、失い、そして、すべてから、解放されて。
ただ、一つの、約束を、果たすためだけに。




