第十二章 龍の失踪 第一部:林祖苑の焦燥 ― 民間の闇より 1. 消えた龍
“The darkest places in hell are reserved for those who maintain their neutrality in times of moral crisis.”
(地獄の最も暗き場所は、道徳的危機の時代に、中立を保った者たちのために用意されている)
– Dante Alighieri (interpreted)
(ダンテ・アリギエーリ)
第一部:林祖苑の焦燥 ― 民間の闇より
1. 消えた龍
2006年、春。香港の空は、鉛色の雲に覆われ、ヴィクトリア・ハーバーの水面も、重苦しい灰色に沈んでいた。オペレーション・ “金蟬脱殻”が、奇跡的な成功を収めてから、一ヶ月が経とうとしていた。
林祖苑は、九龍サイドにある、自身のオフィスで、窓の外を流れる無数のフェリーを、虚ろな目で見つめていた。彼女の心は、この、どんよりとした空模様と、まったく同じだった。
青木義成が、消えた。
まるで、神隠しにでも遭ったかのように。
あの、奇跡の夜。すべての作戦が完了し、彼女が、香港で確保した紅の、安全な医療体制を整え、義成に「すべて完了」という暗号通信を送った、その直後から。
彼の、あらゆる連絡手段が、完全に、沈黙した。
携帯電話は、応答しない。暗号化されたメールにも、返信はない。彼が拠点としていた、上海のウォルドーフ・アストリア、深圳の長安ホテル、そして、香港のペニンシュラ。その、いずれのスイートルームも、もぬけの殻だった。まるで、最初から、誰もいなかったかのように、綺麗に片付けられて。
最初は、彼らしい、用心のための「冷却期間」なのだと思った。あれだけの、国家機関を欺く、大仕掛けな作戦を実行したのだ。しばらく、身を隠すのは、当然のことだと。
だが、一週間が過ぎ、二週間が過ぎても、彼からの、何の痕跡も、現れなかった。
祖苑の、クールな仮面の下で、焦りという名の、冷たい汗が、じわりと滲み始めていた。
何かが、おかしい。
あの男は、決して、これほど長く、沈黙する男ではない。特に、唯一の共犯者である、自分に対しては。
「一体、どこへ消えたのよ…義成…」
彼女は、誰に言うでもなく、呟いた。その声には、自分でも気づかないほどの、不安と、そして、これまで感じたことのない種類の、深い喪失感が、滲んでいた。
表向きは、ビジネスパートナー。だが、その実態は、共に、巨大な悪に立ち向かう、唯一無二の、戦友。そして、プライベートでは…彼女の、凍てついていた女としての心を、唯一、溶かすことのできた、男。
彼女は、彼の不在が、これほどまでに、自分の心を、かき乱すとは、思ってもみなかった。
いても立ってもいられなくなった彼女は、自らが持つ、民間の、そして裏社会の、すべての情報網を、フル回転させ、彼の捜索を開始した。
それは、闇の中に消えた、一匹の龍を、もう一匹の、闇の龍が、追い求める、壮絶な鬼ごっこの、始まりだった。




