第十章 龍の仕掛 第一部:新たな標的 1. 香港の密会
“事を計るは人にあり、事を成すは天にあり”
(事を計画するのは人であるが、その成否は天命による。人事を尽くして、天命を待つ)
– 徳川家康
1. 香港の密会
2004年、10月。
香港の空気は、大陸からの乾いた季節風が吹き始め、亜熱帯の粘りつくような湿気が、わずかに和らいでいた。だが、この街の、金と情報が渦巻く熱気は、一年を通じて、少しも衰えることはない。
九龍サイド、ペニンシュラホテルの、ハーバービュー・スイート。青木義成は、窓の外に広がる、百万ドルの夜景を、冷たい目で見つめていた。月に一度の、定例報告。部屋には、彼の唯一の国家との接点である、佐藤が、音もなく座っている。
「…順調、か」
義成の提出した、分厚い報告書に目を通し終えた佐藤は、能面のような顔で、短く呟いた。その報告書には、上海の腐敗官僚・馬東を完全に掌握したこと、彼の背後にある政法委員会の金の流れ、そして、軍の通信システム開発に関する内部情報まで、国家が喉から手が出るほど欲しがる情報が、詳細に記されていた。
「君の、この一年間の働きは、我々の期待を遥かに上回るものだ。特に、上海の墨鳴風。彼のような、用心深いインテリ官僚の、最愛の妹を『人質』に取るという発想は、常人にはない。君の、その冷徹さは、もはや芸術の域だな」
「お褒めにいただき、光栄です」
義成の声に、感情はこもっていない。佐藤の言葉が、賞賛ではなく、ただの「評価」であることを、彼は知っていた。
「おかげで、我々は、いくつかの大きな『武器』を手に入れることができた。だが、戦いは、まだ始まったばかりだ。今日、君に、次のターゲットを提示する」
佐藤は、アタッシュケースから、一枚の、人物ファイルを取り出した。そこに写っていたのは、これまで義成が相手にしてきた、どの女とも違う、鋭い知性と、鋼のような意志を宿した、三十代前半の、美しい女性の顔写真だった。
「李霃帘」
佐藤は、その名前を、まるで貴重な宝石の名を呼ぶかのように、静かに口にした。
「河北省、経済開発区管理委員会の、党組書記。三十三歳にして、この地位に上り詰めた、共産党の、若きプリンセスだ」
義成は、そのファイルに、素早く目を通した。北京の最高学府を首席で卒業後、党のエリートコースを、異例のスピードで駆け上がっている。その背景には、彼女の直属の上司であり、愛人関係にあると噂される、省の最高幹部・王書記の、絶大な後ろ盾がある。
「彼女は、男を、道具としか見ていない。プライドが高く、その知性で、ほとんどの男を、赤子のように手玉に取る。金にも、ありきたりの贅沢にも、なびかない。彼女が求めるのは、更なる権力と、そして、自分の知的好奇心を満たす、スリルだけだ」
「…手強そうですね」
「ああ。だが、彼女には、一つ、大きなアキレス腱がある。彼女は、その立場を利用し、王書記と共謀して、中国が国家戦略物資として管理する『レアアース』の、大規模な密輸に手を染めている。そして、その汚職で得た、莫大な不正資金を、海外のタックスヘイブンへ移転させる方法を、密かに探っている、という情報がある」
佐藤の目が、鋭く光った。
「我々の、最終目的は、二つ。一つは、彼女を通じて、中国のレアアース戦略の、中枢に食い込むこと。これは、将来、アメリカとの覇権争いが激化した際に、日本の生命線となり得る、最重要課題だ。そして、もう一つは、彼女の不正資金の、海外移転を手助けするフリをして、その金の流れを、我々が、完全にコントロール下に置くことだ」
それは、これまでとは、次元の違う、壮大で、危険なミッションだった。
「どう、接近しろと?」
「それは、君が考えることだ」
佐藤は、冷たく言った。「我々は、情報と、資金は提供する。だが、シナリオを描き、実行するのは、君の役目だ。一つだけ、ヒントをやろう。彼女は、凡庸な男には、一切興味を示さない。彼女を、口説き落とす必要はない。むしろ、彼女の方から、君に『興味』を抱かせ、君を『使ってみたい』と思わせるのだ。彼女の、その、傲慢なまでのプライドを、逆手に取れ」
佐藤は、そう言い残すと、音もなく、部屋から消えていった。
後に残された義成は、李霃帘の、その、挑戦的な瞳の写真を、じっと見つめていた。
(面白い…)
彼の心に、久しぶりに、闘争心という名の、熱い炎が灯った。これまでのように、金と、女と、欲望で相手を堕とす、単純なゲームではない。これは、知性と、策略と、そして、人間の心理の、最も深い部分を読む力が試される、高度なチェスゲームだ。
龍は、新たな、そして最強の敵を前に、その牙を、静かに、研ぎ始めていた。




