第三部:歪曲された純愛 3. ロマンスの罠、純白の天使―墨湛吟(モー・ジャンイン)
癒しの女神と、破壊の女王。義成は、二つの肉体の神殿を、巧みに使い分けることで、その心身のバランスを、危ういレベルで保っていた。
だが、彼の、最も困難で、そして、最も彼の心を歪ませる任務は、別の場所で、静かに進行していた。
ターゲットは、墨鳴風。
上海市公安局に籍を置く、若きエリート官僚。そして、例の、腐敗役人・馬東の、直属の部下であり、懐刀でもある男。馬東のような、わかりやすい欲望の塊とは違う。彼は、清廉潔白を装い、決して、表立った汚職には手を染めない、馬東もが舌まくほど怪訝する用心深い男だった。
だが、祖苑の調査によれば、彼こそが、上海の「610弁公室」の、実務を取り仕切る、インテリジェンス・オフィサーだった。彼を攻略しなければ、共産党が「法輪功」迫害の実態をつかめない、それと母の友人・紅の救出は、あり得ない。
そして、彼には、たった一つだけ、アキレス腱があった。
年の離れた、最愛の妹の存在だ。
墨湛吟。
上海美術学院で、油絵を学ぶ、二十歳の、美しい大学生。彼女は、兄とは正反対の、自由で、ロマンティックな魂の持ち主だった。その、物憂げな瞳、風にそよぐ柳のような、しなやかな体つき。そして何より、彼女の描く絵には、見る者の心を、純粋な世界へと誘う、不思議な力が宿っていた。
義成は、彼女に、接近した。
それは、偶然を装った、完璧に計算された出会いだった。
彼は、美術品のコレクターを装い、上海美術学院の、卒業制作展を訪れた。そして、数ある作品の中から、湛吟の、一枚の風景画の前で、足を止めた。
「…素晴らしい絵だ。光の、捉え方が、まるで、モネのようだ」
彼は、独り言のように、呟いた。
その声に、絵のそばに立っていた湛吟が、はっとしたように、顔を上げた。
「…あの、私の絵に、何か?」
「いや、失礼。あまりに、心が洗われるような絵だったので、つい。この、穏やかな光の中に、どうしようもないほどの、切なさが、同居している。まるで、失われた楽園を、夢見ているかのような…」
義成の言葉は、湛吟の、心の、最も深い部分を、的確に射抜いた。この男は、自分の絵の、表面的な美しさではなく、その奥に込めた、魂の叫びを、理解してくれている。
「青木、と申します。しがない、アートの愛好家です」
「…墨湛吟、です」
その日から、義成の、緻密で、そして残酷な、純愛ゲームが、始まった。
彼は、決して、焦らなかった。彼は、紳士的で、知的で、そして、どこか影のある、ミステリアスなアートコレクターを、完璧に演じきった。
彼は、彼女を、高級なフレンチレストランでの食事に誘い、ワインと、哲学について語り合った。
彼は、彼女のアトリエを訪れ、何時間も、彼女が絵を描く姿を、ただ黙って、見つめ続けた。
彼は、彼女に、ヨーロッパの画集や、珍しい画材をプレゼントしたが、決して、金銭的な援助を申し出るような、野暮なことはしなかった。
彼は、彼女の、繊細な魂を、傷つけないように、細心の注意を払いながら、ゆっくりと、その心の、内側へと、侵入していった。
湛吟は、生まれて初めて、自分の芸術と、魂を、完全に理解してくれる男性に出会い、当然のように、恋に落ちた。
彼女にとって、義成は、灰色の現実の中に現れた、唯一の、光だった。




