2. 家族の食卓、そして母の願い
その夜、高円寺の古いアパートに帰ると、両親は、いつものように静かに彼を迎えた。義成が、東邦広告という、誰もが羨む大企業を辞めたこと。その事実は、すでに彼から電話で伝えられていた。
食卓には、母・京海が作った、温かい上海の家庭料理が並んでいた。父・楡生は黙ってビールをグラスに注ぎ、義成の前に置く。そこに、詰問や落胆の色はなかった。ただ、いつも通りの、家族の時間が流れていた。
重い沈黙を破ったのは、父・楡生だった。
「…お疲れさん」
その、たった一言。しかし、その中には、激務を終えた息子への労いと、彼の決断に対する無言の理解が込められていた。
「会社には、筋を通して辞めてきた。郷田部長にも、仁義は尽くしたのだろう」
「はい。プロジェクトの引継ぎも、すべて済ませてきました」
「そうか。ならば、いい」
父は、それ以上何も聞かなかった。彼にとって重要なのは、息子が社会人としての「道理」を違えなかったか、ただそれだけだった。その上で、息子が選んだ道ならば、どんな道であろうと尊重する。それが、父・楡生の揺るぎないスタンスだった。
母・京海は、黙って三人のためにお茶を淹れていた。彼女の表情もまた、穏やかだった。だが、その瞳の奥には、息子への深い愛情と、拭いきれない心配の色が揺らめいていた。
「義成」
彼女は、義成の正面に座り、まっすぐに彼の目を見た。
「あなたが、どれほど考え、悩んだ末に、その決断を下したのか。母さんには、わかります。だから、どうして、などとは聞きません。ただ…」
彼女は、言葉を選びながら、静かに続けた。
「これから、あなたはどうするつもりなのか。それだけは、私たちに、話してはくれないかしら。私たちは、家族なのだから。あなたの背負う荷物を、少しでも、共に背負いたいのです」
その、静かで、しかし絶対的な信頼に満ちた言葉に、義成は、胸が熱くなるのを覚えた。彼は、国家との契約のすべてを話すことはできない。だが、この両親になら、自分の進む道の「本質」は、打ち明けられると思った。
「…自分の、会社を興そうと思っています。これまでの経験を活かして、日本と、中国やアジアの国々とを繋ぐ、そんな仕事を」
「まあ、独立するのね」
「はい。東邦広告という大きな看板がなければ、もっと自由に、そして、もっと深く、物事の核心に関われると思ったからです」
その時、京海は、ふいに、意を決したように、息子の手を取った。その手は、かすかに震えていた。
「…義成。もし、あなたが、これから中国と深く関わる仕事をしていくというのなら…。あなたにしか、頼めない、お願いがあるのです」
その声もまた、震えていた。
「あなただからこそ、託せる、母さんの、たった一つの願い…」
彼女は、リビングの引き出しから、一枚の、古ぼけた写真を取り出してきた。そこに写っていたのは、広い農田景色をバックに若き日の京海と、彼女に寄り添って、幸せそうに微笑む、もう一人の美しい女性だった。
「この人は、紅。私の若い時からの古い友人よ」
京海は、その写真を、大事そうに指でなぞりながら、語り始めた。
紅は、上海の、知識人の共産党幹部家庭に生まれた。情熱で、芯が強く、そして、誰よりも純粋な心の持ち主だった。二人は、まるで双子のように苦労を共にして、青春時代の苦しい「上山下郷」時代を乗り越えた。
「あの子はね、いつも、真理を求めていたわ。この世の、本当の美しさとは何か、本当の正しさとは何か、って。そんな時、彼女が出会ったのが、『法輪功』だったの」
「法輪功…?」
義成が聞き返す。ニュースで、中国政府が「邪教」として弾圧している気功集団、という程度の知識しかない。
「ええ。最初は、ただの健康法だった。毎朝、公園で、大勢の人たちと、ゆったりとした動きの気功をするの。紅も、見違えるように、心身ともに健康になっていったわ。教えは、とてもシンプル。『真・善・忍』――真実を語り、善き行いをし、耐え忍ぶこと。ただ、それだけ。それを、日々の生活の中で実践しなさい、と。そこには、何の政治的な思想も、野心もなかった。ただ、より善い人間になりたい、という、純粋な願いだけがあったのよ」
だが、その純粋さが、悲劇を生んだ。
法輪功の学習者は、口コミで爆発的に増え、その数は、全中国で一億人に達したと言われた。それは、当時の中国共産党の党員数を、遥かに上回る数字だった。
「時の権力者…江沢民は、それに、恐怖と嫉妬を覚えたのよ。自分の権威を脅かす、巨大な集団だと。そして、ある日突然、彼らを『国家の敵』『邪教』と決めつけ、根絶やしにしようとした。何の罪もない、何十万、何百万人という人々が、捕らえられ、拷問され、殺されていった…」
京海の目から、堪えていた涙が、一筋、頬を伝った。
「紅も、上海の、中心的なメンバーだったから…約一ヶ月前、公安に、連れて行かれたきり、何の連絡もないの。生きているのか、死んでいるのかさえ…」
彼女は、息子の手を、強く握りしめた。
「お願い、義成…!紅を、助け出して!あの子は、私と共に生きた大事な友人でもあるの。私が日本で事故に遭った時、彼女は、中国で必死に私の無事を祈り、回復のための漢方薬を、何ヶ月も送り続けてくれた。今度は、私が、あの子を助ける番なの。でも、私には、何の力もない…」
「あなたなら…あなたが、自分の会社で、自由に中国へ渡れるようになるのなら、何とかできるかもしれない。あなたは、もう、ただの張義成じゃない。日本のパスポートを持つ、青木義成なのだから。お願い…!」
母の、悲痛な願い。それは、詰問でも、強制でもない。ただ、息子の力を信じる、母としての、魂からの祈りだった。それは、国家から与えられた「任務」とは、まったく次元の違う、一個人の、魂からの願い。そして、義成にとって、それは、何よりも重い、新たな十字架となった。
国家の闇と、母の願い。
二つの、あまりにも重い宿命が、彼の双肩に、ずしりとのしかかった。彼は、もう、逃げることはできない。
この、静かな家族の食卓で、彼の進むべき道は、決定づけられたのだ。




