第八章 龍の憐憫 第一部:国家との契約 1. 窓のない部屋
“The sad truth is that most evil is done by people who never make up their minds to be good or evil.”
(悲しい真実だが、悪の大部分は、善人になろうか悪人になろうかと心を決めることのない人々によって為されるのだ)
– Hannah Arendt/ハンナ・アーレント
1. 窓のない部屋
2004年、1月。東京、霞が関。
巨大な合同庁舎の、その奥深く。地図には載らず、案内板にも記されない、窓のない一室。部屋の中にあるのは、質素な会議テーブルと数脚の椅子、そして壁に掛けられた、いくつかの赤い印が付けられた世界地図だけ。部屋の空気は、外部の音を一切遮断し、真空に近いほどの静寂に支配されていた。
青木義成は、その部屋の主である、佐藤と名乗る男と向かい合っていた。
東邦広告に辞表を提出した、その足で。
「…本当に、いいのだな。この扉を一度出れば、君はもう、昨日の君ではなくなる。民間人としての、平穏な生活には二度と戻れない」
佐藤は、最後の確認をするように、静かな、しかし有無を言わせない口調で言った。その能面のような表情は、相変わらず感情を読み取らせない。
「覚悟の上です」
義成の声に、迷いはなかった。この数ヶ月、彼の周囲を幽霊のように付きまとい、見えない圧力で外堀を埋めてきたこの男の誘いを、彼は、自らの意志で受け入れることを決めたのだ。
「一つだけ、お聞かせください。なぜ、僕なのですか」
それは、義成がずっと抱いてきた、根源的な問いだった。数多いる優秀な人間の中から、なぜ、この自分だったのか。
佐藤は、初めて、その表情をわずかに動かした。それは、自嘲にも似た、かすかな笑みだった。
「君の経歴書は、我々にとって宝の山だ。中国で生まれ、日本で育ち、アメリカの空気を吸った。三つの国の言語と文化を、その肌で理解している。それだけでも、希少価値は高い。だが、君を選んだ決定的な理由は、そこではない」
彼は、テーブルの上に置かれた義成の、分厚い調査報告書を、指で軽く叩いた。
「君は、その人生で、常に『境界線』の上に立ってきた。国と国、文化と文化、そして、光と闇の。君は、どちらにも染まりきることなく、その両方を冷徹に観察し、分析する目を持っている。そして何より…」
佐藤は、言葉を切り、義成の瞳の奥を、まっすぐに見据えた。
「君の心には、巨大な『空洞』がある。決して埋まることのない、絶対的な喪失感。満たされない人間は、常人には見えないものが見える。常人には超えられない一線を、躊躇なく超えることができる。我々が必要としているのは、優秀なビジネスマンではない。深淵を覗き込み、そして、深淵に飲み込まれずに帰ってくることのできる、そんな特殊な人間だ」
その言葉は、義成の魂の最も柔らかな部分を、容赦なく抉った。李殷。死後にもかかわらず、彼女との婚姻届けと死亡届と共に義成はまだ張義成だった時に日本の行政へ提出していた。その彼女の不在が生んだ、この虚無。この男は、それすらも、国家のための「適性」として、冷徹に分析していたのだ。怒りよりも先に、奇妙な納得感が、義成の心を支配した。
「我々の任務は、正規の外交ルートでは決して解決できない、経済安全保障上の脅威を、非公式な手段で排除、あるいは懐柔することにある。言わば、国家の『闇の清掃人』だ」
佐藤は、一枚の辞令を、テーブルの上に滑らせた。
『経済安全保障推進室付 特務嘱託を命ず』
「君には、民間のコンサルティング会社を設立してもらう。表向きは、日本企業の海外進出を助けるクリーンな仕事だ。だが、その裏で、我々の指示に基づき、特定の国の、特定の組織、特定の人物に接触し、非公式な交渉ルートを構築してもらう。いわば、有事の際の、国家の『抜け道』作りだ。そのための資金は、青天井で用意する。君の行動を、我々は一切制限しない。完全な自由裁量権を与える」
「…見返りは?」
「ない」
佐藤は、きっぱりと言った。
「成功しても、君の名前が歴史に残ることはない。失敗すれば、我々は君を見捨てる。君は、最初から存在しなかった人間になる。これが、この仕事の、唯一にして絶対の鉄則だ。すべての責任は、君個人が負う。我々は、君を、知らない」
あまりにも過酷な、しかし、だからこそ純粋な契約。義成は、その辞令を手に取った。ずしりと重い。それは、紙の重さではない。国家の闇を、その一身に背負うことの、覚悟の重さだった。
彼は、無言で、ペンを手に取り、受諾の欄に、滑らかな筆致で「青木義成」と署名した。
佐藤が最後に口にしたのは彼自身の義成への根拠のない約束だった。
「青木君・・・君は若い、その若さのゆえ、また情にとても厚い人間だけど、その反面、物事の分別をよく知っている。そこら辺の外国語だけが長ける翻訳機械のような青二才とわけが違う。私が約束しよう・・・君がこの任務をやめたいと思った時には、できるだけの余生が過ごせる環境を整えるように私の権限で計らうようにする。ただそれは見合った分の働きが前提だ・・・わかるな!」
契約は、成立した。
龍は、国家という、新たな主人を得た。




