5. 一通の手紙と新たな旅立ち
彼が会社を辞めてから、一ヶ月が経った、ある寒い夜。
仕事から帰り、冷え切ったアパートの郵便受けを覗くと、そこに、一通の、見慣れない封筒が入っていた。差出人の名前はない。切手も貼られていない。誰かが、直接、投函していったのだろう。
私の心臓が、大きく跳ねた。
震える手で封を切ると、中から、一枚だけ、便箋が滑り落ちた。そこに書かれていたのは、彼の、見慣れた、少し癖のある、美しい文字だった。
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高藤さん
突然、何も言わずに去る形になったこと、許してください。
短い間でしたが、君やチームの皆さんからいただいた温かい心遣いには、感謝の言葉しかありません。
君は、僕が出会った中で、最も魂のこもった絵を描く人でした。
そのデザインは、どんな理屈や言葉よりも強く、人の心を直接揺さぶる、本物の力を持っています。
これからも、その素晴らしい才能を、誰よりも君自身が信じ続けてください。
君なら、必ず、誰も見たことのない景色を創り出す、最高のデザイナーになれる。
遠くから、君の未来が、光り輝くものであることを、心から祈っています。
本当に、ありがとう。どうか、元気で。
青木義成
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あまりにも簡潔で、そして、あまりにも綺麗すぎる別れの言葉。
そこには、言い訳も、事情の説明も、再会の約束も、何一つ書かれていなかった。ただ、私への、そして私の未来への、温かいエールだけが、彼の美しい文字で綴られていた。
危険なこと、新しい道、そんな言葉は一切ない。だからこそ、彼の不在が、より絶対的なものに感じられた。彼は、私に何の未練も、手がかりも残さず、完全に自分の人生から私を切り離そうとしている。その優しさが、刃物のように私の胸を切り裂いた。
涙が、溢れて止まらなかった。悲しいのか、悔しいのか、それとも、彼の最後の言葉に、ほんの少しだけ、心が温かくなったのか。自分でも、よくわからなかった。
私は、窓を開け、冷たい夜空を見上げた。都会の光にかき消されて、星は見えない。
彼は、今、この空の下の、どこにいるのだろう。
何を想い、どんな道を、歩んでいるのだろう。
私には、何もできない。ただ、ここで、彼を信じ、待ち続けることしか。
だが、その時、私は、一つの決意を固めた。
私も、変わらなければならない。いつか、どこかで彼が私の名前を聞いた時に、彼が誇りに思ってくれるような、そんなデザイナーに、そして、一人の女性に、ならなければならない。
彼の不在は、一つの物語の終わりではなかった。
それは、私にとっての、新しい物語の始まりを告げる、号砲だったのだ。
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その頃、霞が関の、窓のない一室。
青木義成は、壁に掛けられた世界地図を、冷たい目で見つめていた。その地図には、通常の地図にはない、いくつかの赤いマークが記されている。
彼の前には、あの、佐藤と名乗る男が座っている。
「…本当に、いいんだな。もう、民間人としての生活には戻れないぞ」
佐藤が、最終確認をするように、念を押す。
「ええ、覚悟の上です」
義成の声に、迷いはなかった。
彼の目の前のテーブルの上には、二つのものが置かれていた。
一つは、東邦広告の、退職届。
そして、もう一つは…。
「経済安全保障推進室、特殊任務嘱託」
そう記された、一枚の、質素だが重みのある身分証明書だった。
義成は、会社を辞めたのではない。
彼は、国家という、より巨大な組織の、目に見えない駒として、新たな戦場へと、その身を投じたのだ。彼の初陣は、上海ではなかった。
本当の初陣は、これから始まる。光と闇が、国家レベルの経済戦争の中で交錯する、より深く、危険なゲームの中へ。
彼は、自ら、その渦の中に、飛び込んでいった。




