3. 不可解な行動の数々
冬のボーナスが出た、十二月のある日。私たちのSMSプロジェクトは、ついに中国側のパートナー企業との基本合意に達し、チームは祝賀ムードに沸いていた。
「よし!今夜は、俺の奢りだ!パーッとやるぞ!」
郷田部長の号令で、チーム全員で、銀座の高級焼肉店へ繰り出した。
「いやあ、青木!お前は、本当にうちの宝だ!乾杯!」
誰もが、義成の功績を称え、酒を酌み交わした。だが、その日の主役であるはずの義成は、どこか心ここにあらず、といった様子だった。彼は、ほとんど肉に手をつけず、ただ黙って、ウーロン茶のグラスを傾けていた。
「どうしたんだよ、張。元気ないじゃん。せっかくの祝勝会なのに」
隣に座った鈴木君が、心配そうに声をかける。
「いや、そんなことはないよ。ただ、少し考え事をしていただけだ」
その時、彼の携帯が、テーブルの下で短く震えた。彼は、誰にも気づかれないように、そっと画面を確認すると、一瞬だけ、顔をこわばらせた。
「すまない、少し、電話をかけてくる」
彼は、そう言うと、席を立った。私は、彼の後を、そっと追った。彼は、店の裏口から外へ出ると、路地の暗がりで、誰かに電話をかけていた。その声は、押し殺されてはいたが、激しい怒りと、焦りが滲んでいた。
「…だから、言ったはずだ!俺は、その話には乗らないと!」「…家族を、巻き込むだと?ふざけるな!」「…いいだろう。わかった。場所はどこだ」
電話を切った彼の顔は、見たこともないほど、蒼白だった。彼は、深く、苦げなため息をつくと、そのまま、祝賀会の席には戻らず、夜の闇の中へと消えてしまった。
翌日、会社で会った彼は、何事もなかったかのように、いつもの冷静な彼に戻っていた。
「昨日は、すまなかった。急用ができてしまって」
私は、何も聞けなかった。彼のその瞳が、「何も聞くな」と、雄弁に物語っていたからだ。
彼の不可解な行動は、それだけではなかった。
ある日、私は、会社の経費精算の書類の中に、彼の提出したタクシーの領収書が紛れ込んでいるのを見つけた。深夜の日付で、行き先は「横浜港、大黒ふ頭」。広告代理店の社員が、平日の深夜に、そんな場所へ行く用事など、あるはずがない。まるで、スパイ映画のワンシーンのようだった。
またある時は、彼のデスクの上に、一冊の、分厚い英語の洋書が置かれているのに気づいた。タイトルは『Strategic Trade and Technology Competition』。日本語に訳せば『戦略的貿易と技術競争』とでもなるだろうか。パラパラとめくってみると、半導体やレアアースといった専門用語と、複雑な数式がびっしりと並んでいた。広告の仕事とは、まったく関係のない、難解な本。その本は、翌日には、跡形もなく消えていた。
彼の身辺で、何かが起きている。それは、もう間違いなかった。彼は、私たちの知らない、もう一つの顔を持っている。その顔は、光の当たる世界のものではなく、もっと深く、暗い世界のもののようだった。
私は、怖かった。でも、それ以上に、彼を、このまま一人にしてはおけない、という気持ちが、日増しに強くなっていった。




