2. 謎の訪問者
夏が過ぎ、秋風が吹き始めた頃。その男は、現れた。
その日、私は、クライアントに提出するデザインカンプの修正作業に追われ、一人オフィスに残っていた。時計の針は、とっくに夜の十時を回っている。
不意に、フロアの入り口の方で、人の気配がした。こんな時間に誰だろう、と思って顔を上げると、そこに、一人の見知らぬ男が立っていた。
四十代半ばくらいだろうか。何の変哲もない、グレーのスーツを着ている。だが、その佇まいは、普通のサラリーマンとは明らかに違っていた。無駄な肉が一切ない、鍛えられた体つき。そして、感情というものを削ぎ落としたような、能面のような無表情。彼は、獲物を探す猛禽類のように、静かに、しかし鋭く、フロア全体を見渡していた。
「…あの、何かご用でしょうか?」
思わず、声をかけた。男は、ゆっくりと私の方へ顔を向けた。その目は、感情がない分、逆に、すべてを見透かしているような、不気味な光を宿していた。
「青木義成君は、ここにいるかね?」
その声は、低く、抑揚がなかった。
「あ、青木君なら、今日はもう…」
「いや、ここにいるはずだ。彼のデスクは、どこかね?」
男は、私の言葉を遮り、有無を言わせない口調で言った。その威圧感に、私は逆らうことができず、震える指で、フロアの奥にある彼のデスクを指さした。
男は、会釈一つせず、まっすぐに彼のデスクへと向かっていった。そして、まるで自分のデスクであるかのように、彼の椅子に腰掛け、何かを待つように、じっと腕を組んだ。
その時、タイミングを見計らったかのように、義成が、トイレから戻ってきた。彼は、デスクに座る男の姿を認めると、一瞬だけ、その表情を凍りつかせた。だが、すぐにいつもの冷静さを取り戻し、男に近づいていった。
「…佐藤さん。どうして、ここに」
「少し、話がある」
佐藤と呼ばれた男は、立ち上がると、義成に、顎で会議室の方を示した。二人は、一言も交わさず、会議室の中へと消えていった。
私は、遠くから、ガラス張りの会議室の様子を、息を殺して窺っていた。会話は聞こえない。だが、二人の間に流れる空気は、尋常なものではなかった。佐藤という男は、終始無表情で何かを語り、義成は、腕を組み、厳しい表情で、その言葉に耳を傾けている。時折、彼は、何かを強く否定するように、首を横に振っていた。
三十分ほど経っただろうか。二人が、会議室から出てきた。佐藤は、私には目もくれず、エレベーターホールへと向かう。その背中を、義成が、険しい顔で見送っていた。
「…張さん、今の、誰なの?」
私は、たまらずに駆け寄って尋ねた。
「高藤さん、まだいたのか。…いや、何でもない。古い、知り合いだよ」
「でも、なんだか、すごく怖い人だった…」
「気にするな。もう、帰った方がいい。夜道は、危ないから」
彼は、そう言って、無理に笑顔を作った。だが、その笑顔は、ひどく強張っていた。彼は、何か、とてつもなく大きなトラブルに巻き込まれているのではないか。その日から、私の胸騒ぎは、確信に近いものへと変わっていった。
その後も、「佐藤」と名乗る男は、何度か会社に現れた。ある時は、昼休みの屋上で。またある時は、会社の近くの喫茶店で。彼は、まるで幽霊のように、予告なく義成の前に現れ、そして消えていった。
そのたびに、義成の顔からは、少しずつ血の気が失われ、その瞳の奥の闇は、深くなっていくように見えた。




