第七章 龍の不在 1. 帰還、そして微かな違和感
“The world is full of obvious things which nobody by any chance ever observes.”
(世界は、誰ひとりとして偶然にすら観察しないような、明白なことで満ちている)
– Arthur Conan Doyle, "The Hound of the Baskervilles"/アーサー・コナン・ドイル『バスカヴィル家の犬』
1. 帰還、そして微かな違和感
私の名前は、高藤千芳。東邦広告制作局に所属する、しがないデザイナーの卵だ。そして、同期である青木義成――彼のことを、私はつい、昔の癖で「張さん」と心の中で呼んでしまう――に、密かな、そしておそらくは報われることのない恋心を抱いている、ごく普通の二十四歳の女だ。
2003年の初夏。彼が、制作局のトラブルシューターとして上海出張に同行し、そして英雄的な活躍と共に帰国した時、私は、安堵と、そしてほんの少しの嫉妬を感じていた。彼は、まるで一回りも二回りも大きくなったように見えた。その自信に満ちた佇まい、以前にも増して鋭くなった眼光。彼が、私とは違う、もっと大きな世界で戦っているのだという事実を、まざまざと見せつけられた気がした。
「高藤さん、ただいま。留守中、チームのこと、ありがとう」
帰国翌日、彼は私のデスクにやってきて、そっと上海土産のジャスミンティーの缶を置いた。その声は、いつもと変わらず優しかったけれど、彼の纏う空気が、明らかに変わっていた。以前の彼が、硬質な水晶のような透明感を持っていたとすれば、今の彼は、どこまでも深く、光を吸い込む黒曜石のような、静かな凄みを帯びていた。
「お、おかえり、張さん!ううん、青木君!大変だったでしょう?」
「まあね。でも、いい経験になったよ」
彼は、そう言って穏やかに笑った。でも、その笑顔は、どこか一枚の薄いヴェールを隔てているようだった。彼は、上海で何を見て、何を感じてきたのだろう。彼のその瞳の奥に、私が決して知ることのできない、どんな景色が焼き付いているのだろう。
その日から、私の日常に、小さな、しかし無視できない謎が、ぽつり、ぽつりと生まれ始めた。それは、まるで上質なミステリー小説の、何気ない伏線のように。
上海出張から数週間後。私たちのSMSプロジェクトは、彼の卓越したリーダーシップの下、さらに加速していた。その日も、深夜までチームで残業し、帰りがけに、私は彼と二人きりになった。
「張さん、最近、すごく疲れてない?顔色、あんまり良くないよ」
「そうかな?自分では気づかなかったけど」
自販機で買った缶コーヒーを飲みながら、人気のないオフィス街を駅に向かって歩く。それは、以前の私たちにとって、ささやかで、しかし大切な時間だった。でも、今の彼は、どこか上の空だった。
ふと、彼が着ているスーツの袖口に、微かな汚れが付いているのに気がついた。それは、赤土のような、乾いた土の汚れだった。
「あれ?張さん、どこかで転んだの?」
「え?」
彼は、私の視線に気づき、慌てて袖口を隠すように腕を組んだ。
「ああ、これか。大したことないよ。さっき、資料室で古い段ボールを動かした時にでも、ついたんだろう」
彼は、そう言って笑った。でも、その説明は、どこか不自然だった。オフィスビルの、それも空調の効いた資料室に、あんな赤土の汚れが付くような場所があるだろうか。その小さな嘘が、私の心に、最初の棘のように、ちくりと刺さった。




