第四部:継承の儀式 10. 最後の夜
10. 最後の夜
上海での10日間の出張は、あっという間に過ぎ去ろうとしていた。
プロジェクトは、義成と祖苑の完璧なコンビネーションにより、驚くほどスムーズに進展し、涌井部長もご満悦だった。最終日の夜、クライアント主催の盛大な送別会が、外灘の夜景を一望できる、超高級ホテルの最上階で開かれた。
宴もたけなわの頃、祖苑が、そっと義成の隣に来た。
「今夜、この後、付き合ってくれるかしら」
その声は、いつもより、少しだけ湿り気を帯びているように聞こえた。
「もちろん」
義成は、頷いた。
送別会が終わり、涌井部長たちが二次会だと騒ぎ立てるのを背に、二人は、ホテルのエレベーターで、別の階へと向かった。そこは、祖苑が、このホテルの長期滞在者として借りている、彼女自身のスイートルームだった。
部屋は、彼女の美意識を反映して、ミニマルで、しかし最高級の調度品で整えられていた。窓の外には、まるで宝石を散りばめたような、上海の夜景が広がっている。
「何か、飲む?」
彼女は、サイドボードに並んだ、高級な洋酒のボトルを指さした。
「あなたに任せる」
「そう。じゃあ、今夜は、特別な一本を」
彼女が選んだのは、スコットランドの、アイラ島で作られた、極めてピーティ(燻香が強い)なシングルモルト・ウイスキーだった。
「ラガヴーリン。私が、一番好きな酒よ。正露丸みたいな匂いがするけど、癖になるの。まるで、この街みたいにね」
二人は、黙ってグラスを傾けた。ウイスキーの強烈な香りが、鼻腔を突き、喉を焼く。
静寂を破ったのは、祖苑だった。
「…明日、帰ってしまうのね」
「ああ」
「寂しくなるわ…」
その言葉は、彼女らしくなく、感傷的だった。「やっと、同じ言語を話せる相手を見つけたと、思ったのに」
彼女は、この10日間で、義成に、自分の持つ知識と経験の、すべてを注ぎ込んだ。共産党の派閥、幹部たちの人脈、彼らの個人的な性癖に至るまで。それは、もはやビジネスのレクチャーではなく、師から弟子への、密教の伝授のようだった。
義成は、スポンジが水を吸うように、そのすべてを吸収した。
「あなたは、私に似ているわ。でも、私よりも、ずっと強い。私には、この国と、正面から向き合う勇気がなかった。だから、香港という、安全な場所から、この国を眺めているだけ。でも、あなたは違う。あなたは、渦の中心に、飛び込もうとしている」
強い酒のせいか、彼女の瞳は潤み、その頬は、うっすらと赤く染まっていた。
「だから、お願い。負けないで。あの怪物たちに、飲み込まれないで。そして…」
彼女は、グラスを置くと、義成の前に立った。
「私を、忘れないで」




