9. メンターの講義 - 堕落の鉄則
「この国で、特に共産党の連中とビジネスをするには、彼らの言語を話さなければならない。それは、北京語のことじゃないわ。彼らの『価値観』の言語よ」
祖苑の目は、バーの薄暗い照明の中で、妖しく輝いていた。
「彼らが、最も信用しない人間が、どんな人間か知ってる?清廉潔白で、理想を語り、賄賂を受け取らない人間よ。そんな奴は、スパイか、自分たちを出し抜こうとしている敵だとしか思われない。彼らは、『弱み』を共有できる人間しか、仲間とは認めないの」
彼女は、義成のグラスに、自分のブランデーを少し注ぎ足した。
「汚職、賭博、酒、そして、女。これらは、彼らにとって、単なる娯楽じゃない。権威の象徴であり、仲間意識を確認するための、重要な儀式なのよ」
「儀式…」
「そう。例えば、あなたが地方政府の書記と契約を結びたいとする。彼を高級レストランに招待し、最高級の酒を振る舞う。それだけじゃ、三流よ。彼は、あなたを試している。『こいつは、どこまでできるのか』とね。あなたは、彼以上に飲み、彼以上に羽目を外し、そして、彼が好むタイプの女性を、最高の形で用意しなければならない。あなたが、彼と同じか、それ以上に『堕落』していることを見せつけて、初めて、彼はあなたに心を開くの。『こいつは、俺たちと同じ匂いがする。裏切らないだろう』とね」
彼女の言葉は、まるで悪魔の囁きのようだった。しかし、そのロジックは、完璧で、揺るぎなかった。
「あなたは、そのための武器を、すべて持っているわ。日本人という、信頼されやすい表の顔。中国人としての、彼らの心を理解できる内面。そして、欧米のやり方を知る、合理的な頭脳。でも、一番重要な武器は、あなたのその『瞳』よ」
祖苑は、義成の顔を、じっと見つめた。
「その瞳の奥にある、深い孤独と、虚無。それは、彼らが最も好むものよ。満たされない人間は、欲望に忠実になれるから。あなたは、最高のプレイヤーになれるわ、義成。この、巨大なカジノでね」
彼女は、そう言うと、グラスに残ったブランデーを一気に飲み干した。
「今日は、ここまで。続きは、また今度、ゆっくりと教えてあげる」
その夜、義成は、ホテルの部屋に戻り、眠れずに、ずっと天井を見つめていた。
祖苑の言葉が、頭の中で何度も反芻される。
それは、彼がこれまで信じてきた、正義や、誠実さといった価値観を、根底から覆すものだった。だが、彼は、その「闇の教典」に、抗いがたいほどの魅力を感じている自分に、気づいていた。
なぜなら、それは、この国で「勝つ」ための、最も確実な方法論だったからだ。
そして、自分には、それができる、という確信があった。




