8. メンターの講義 - 鄧小平の芝居
その夜、義成は、祖苑に指定されたバーへと向かった。そこは、観光客が決して足を踏み入れないような、古い洋館を改造した、会員制のジャズバーだった。重厚な木の扉を開けると、サックスのむせび泣くようなメロディと、葉巻の紫煙が、彼を迎えた。
祖苑は、カウンターの隅で、一人、ブランデーグラスを傾けていた。今日の彼女は、昼間のキャリアウーマン風のワンピースではなく、体にフィットする黒いレザーのパンツに、シンプルなシルクのブラウスという、ラフだが、より彼女自身の本質を感じさせる装いをしていた。
「来たのね、青木さん。いや…義成、と呼んでもいいかしら」
「お好きなように」
義成は、彼女の隣に腰掛け、バーボンを注文した。
「お祖母様には、会えた?」
彼女は、こともなげに言った。義成が今日どこへ行っていたか、彼女はすべてお見通しのようだった。
「…あなたには、隠し事ができないようだ」
「この街ではね。…辛かったでしょう。変わってしまった故郷と、家族の姿を見るのは」
その言葉には、彼女自身の経験からくるであろう、深い共感がこもっていた。
「私の家族も、そうだったから」
彼女は、ブランデーを一口含み、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「私の叔父は、共産党の、それもかなり中枢にいたエリートだった。理想に燃えて、この国を良くしようと本気で信じていた。でも…文化大革命がすべてを変えた。彼は、実権派、走資派として吊し上げられ、半殺しの目に遭った。毛沢東が死に、鄧小平が権力を取り戻して、叔父の名誉は回復された(平反された)わ。でも、彼の心は、完全に折れてしまっていた。彼は、党を、この国そのものを、心の底から憎むようになった。そして、すべてを捨てて、香港に逃げ、アメリカに渡った。二度と、故郷の土は踏まないと誓ってね」
その話は、義成にとって、他人事ではなかった。彼の父・楡生もまた、似たような経験の果てに、日本へと渡ったのだ。
「だから、私にはわかるの。あなたが、なぜ日本人になろうとしたのか。そして、なぜ今、再びこの国の土を踏んでいるのか。あなたは、この国を憎んでいる。でも同時に、愛してもいる。その矛盾が、あなたを苦しめている」
彼女の言葉は、鋭いナイフのように、義成の心の最も柔らかな部分を抉った。
「あなたのような、賢くて、傷ついた人間が、この国で生きていくのは、とても難しい。だから、教えてあげる。この国で生き抜くための、本当のルールを」
彼女は、いたずらっぽく笑った。
「ねえ、義成。あなたが信じている『改革開放』なんて、壮大なフィクションよ。鄧小平が、西側諸国を、特に日米を騙すために打った、一大芝居なの」
「芝居…?」
「そう。彼は、国連でなんて言った?『中国は、たとえ将来強大になっても、永遠に覇権を唱えず、超大国にはならない。そしてもし世界の人々がその結果を望まないのであれば、全人類でそれを打てばよい』と、あれを聞いて、世界中が拍手喝采したわ。ああ、中国は、ようやく世界のルールを理解した、とね。でも、あれは全部嘘。彼の本心は、四文字の言葉に集約されている。『韜光養晦』――爪を隠し、才能を隠し、時が来るのを待つ。そして、もう一つが江沢民の信条ともいえる『悶声大発財』――声を出さずに、静かに、しかし徹底的に大儲けする。そのために、西側の技術と金が必要だった。だから、頭を下げ、笑顔を見せ、市場を開放するフリをしたのよ。彼らは、眠れる龍じゃない。死んだフリをしている、腹ぺこの龍なの。そして、腹いっぱいになった時、必ず、牙を剥くわ」
その言葉は、義成にとって、衝撃だった。しかし、不思議なほど、腑に落ちた。彼が、この数日間で肌で感じた、この国の巨大なエネルギーと、その裏に潜む貪欲なまでの野心。その正体が、彼女の言葉によって、明確な形を結んだ。




