第三部:闇の教典 7. 祖母との再会
出張が始まって五日目、週末の土曜日だった。プロジェクトは義成の活躍で順調に進み、その日は半日の自由時間が与えられた。涌井部長たちは、ゴルフだ、観光だと息巻いていたが、義成は一人、喧騒の市内を離れた。タクシーを乗り継ぎ、向かったのは、上海の旧市街地の西側に位置する、虹口地区の古い住宅地だった。
そこは、彼の記憶の中にある上海の原風景が、奇跡的に残っている場所だった。迷路のように入り組んだ路地。壁の漆喰が剥がれ、煉瓦がむき出しになった石庫門造りの家々。物干し竿には、万国旗のように洗濯物がはためき、家々の窓からは、麻雀牌をかき混ぜる音や、子供を叱りつける母親の甲高い声が聞こえてくる。
ここは、父・楡生が育てられた故郷であり、義成が12歳で日本へ渡るまで、過ごした場所だった。
彼は、一つの古びた家の前で足を止めた。表札には、「33号」という文字が、かすれてかろうじて読み取れる。彼は、深く息を吸い込むと、錆びた鉄の扉を、そっと叩いた。
しばらくして、中から現れたのは、見知らぬ中年女性だった。おそらく、雇われた家政婦だろう。
「どなた?」
「…僕は、陳珍蓮の孫です。日本から来ました」
その言葉を聞いて、女性の顔つきが変わった。彼女は、慌てて彼を家の中へと招き入れた。
家の中は、薄暗く、時間が止まったかのような静けさに満ちていた。そして、居間の古びた籐の椅子に、一人の老婆が、毛布にくるまって、ぽつんと座っていた。
父の養母、陳珍蓮。かつては、芯の強い、快活な女性だった。義成が幼い頃、彼女はいつも、温かい笑顔で彼を迎え、甘い豆花や、手作りの粽を食べさせてくれた。
だが、目の前にいる祖母は、変わり果てていた。数年前に患った脳梗塞の後遺症で、体の右半分は麻痺し、その瞳は、焦点が合わずに宙を彷徨っている。
「おばあちゃん…僕だよ、義成だよ」
義成は、彼女の前に跪き、その皺だらけの手を、両手で包み込んだ。
祖母は、ゆっくりと、彼の顔を見た。その虚ろだった瞳が、ほんの少しだけ、光を取り戻したように見えた。彼女の口が、何かを言おうと、かすかに動く。だが、言葉にはならない。ただ、「あー…うー…」という、意味をなさない声が漏れるだけだった。
しかし、次の瞬間。彼女の、麻痺していない左目から、一筋の涙が、はらりとこぼれ落ちた。そして、その手は、孫の手を、か細い力で、しかし確かに、握り返してきた。
わかっている。彼女は、わかっているのだ。目の前にいるのが、誰なのか。
義成の目からも、熱いものが込み上げてきた。彼は、祖母の手を自分の額に押し当て、声を殺して泣いた。
「ごめん…ごめんよ、おばあちゃん。もっと早く、会いに来れなくて…」
自分が「張義成」であった頃の、最後の、そして最も温かい記憶。この場所で、この腕の中で、彼は無条件に愛されていた。何の打算も、偽りもない、純粋な愛。
今の自分が、失ってしまったもの。
彼は、変わり果てた祖母の姿に、自分の過去の一部が、永遠に失われてしまったことを、痛感していた。
一時間ほど、彼は、何も話せない祖母の手を握り、ただそばに座っていた。それは、言葉を超えた、魂の対話だった。
家を出る時、家政婦が、そっと彼に言った。
「旦那様がいらしてから、おばあ様、ずっと穏やかなお顔をされています。本当に、嬉しかったんだと思います」
義成は、振り返らなかった。振り返れば、また涙が溢れてしまいそうだったからだ。
この再会は、彼の心に、深く、そして重い錨を降ろした。自分は、どこから来て、どこへ行こうとしているのか。光を求めながら、なぜ闇に惹かれてしまうのか。
その答えのヒントが、この街の、そして、これから会うであろう、あの女の中にあるような気がしていた。




