3. 陰のある水先案内人
「ようこそ、東邦広告の皆様。お待ちしておりました」
その声は、鈴を転がすように涼やかで、完璧な東京標準語だった。
声の主は、会議室のテーブルの奥に座っていた。立ち上がった彼女の姿を見て、涌井部長と佐々木の目が、点になった。
体に吸い付くような、上質なシルクのワンピース。そのラインは、女性誌のモデルのように完璧で、三十代後半という年齢を感じさせない。長く艶やかな黒髪を無造作にまとめ、シャープな顎のラインと、高い鼻梁を持つその顔立ちは、知性と、そしてどこか人を寄せ付けない冷たさを感じさせた。彼女こそ、ソエン・プランニングの代表、林祖苑だった。
「ど、どうも!私が責任者の涌井です!いやあ、林さん、噂には聞いておりましたが、これほどの美人だったとは!」
涌井は、でれでれとした表情で、彼女の前に名刺を差し出した。祖苑は、その名刺を優雅な仕草で受け取ると、ビジネススマイルを浮かべた。
「過分なお言葉です、涌井部長。こちらこそ、御社のような大企業とお仕事ができて光栄ですわ」
その丁寧な言葉遣いとは裏腹に、彼女の瞳は、少しも笑っていなかった。むしろ、目の前の男の浅はかさを見透かし、値踏みしているような、冷たい光を宿していた。
制作局の面々が、次々と自己紹介をしていく。佐々木は、完全に舞い上がり、自分の武勇伝のようなものを語り始めている。村松は、彼女の放つオーラに気圧され、どもりながら名刺を交換した。
最後に、義成が彼女の前に立った。
「青木義成です。今回、国際戦略局からサポートとして参加します。よろしくお願いします」
義成が名刺を差し出すと、祖苑は初めて、その表情をわずかに変えた。彼女は、義成の顔と、名刺に書かれた「青木」という日本名を、興味深そうに見比べた。
「青木さん…」
彼女は、彼の名前を、確かめるように呟いた。そして、ほんの一瞬だけ、彼女の瞳の奥の氷が、微かに溶けたような気がした。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。あなたのような方がいらっしゃれば、心強いですわ」
二人の視線が、数秒間、交錯した。
義成は、彼女の瞳の奥に、自分と限りなく近い種類の孤独と、この世界に対する、ある種の諦観が渦巻いているのを感じ取った。この女は、ただの美人なビジネスウーマンではない。彼女は、何かを背負っている。何か、深い闇を。
この出会いが、自分の運命を大きく変えることになる。
その時の義成は、まだ、知る由もなかった。




