第六章 龍の初陣 第一部:龍、東海の都へ 1. プロローグ - 新たな翼
“知己知彼,百戰不殆”
(己を知り、相手を知れば、百戦して殆うからず)
– 孫子『兵法』
第一部:龍、東海の都へ
1. プロローグ - 新たな翼
2003年、初夏。
東京の空気は、梅雨入り前のわずかな期間だけ許される、乾いた明るさと、目に青葉がまぶしい生命力に満ちていた。東邦広告に入社して二年目の青木義成は、もはや「新人」という言葉が似合わない存在となっていた。
彼がリーダーを務めた中国事業開発部のSMSプロジェクトは、社内プレゼンでの劇的な勝利を皮切りに、正式な事業として力強く推進されていた。彼のチームは、まるで強力な磁場のように社内の優秀な人材を引き寄せ、赤城のような旧弊な抵抗勢力を沈黙させ、今や国際戦略局の中でも最も注目されるセクションの一つへと変貌を遂げていた。同期の鈴木達樹は頼れる現実主義の右腕となり、プライドの高いエリートだった古天翔は彼の指揮下でその人脈を最大限に活用し、そして高藤千芳は、プロジェクトの理念を形にする魂のデザイナーとして、義成にとって不可欠な存在となっていた。
義成は、ディレクターとして、そのすべてを冷静に、しかし揺るぎない情熱をもって統率していた。彼の的確な判断力、多言語を駆使した交渉術、そして何よりも、プロジェクトの根幹にある人間的な理念は、年齢や役職を超えて、多くの社員からの信頼と、一部からの嫉妬を同時に勝ち取っていた。
その日、義成は、自席で中国の最新の通信行政に関するレポートを読み込んでいた。彼の背後から、ぬっと巨漢の影が近づいてくる。国際戦略局長の郷田だった。
「よう、青木。いい面構えになってきたじゃないか」
「部長。お疲れ様です」
「うむ。お前に、一つ面白い話を持ってきた。制作局の涌井を知ってるか?俺の同期でな、あの男、今、会社の金城湯池(ドル箱)であるテーマパーク『ドリームランド』の、上海プロジェクトで頭を抱えてる」
「上海ドリームランド、ですか。国内最大のクライアントの、最重要海外プロジェクトですね」
「その通りだ。新しいショーの現地制作で、どうも現地の連中とクリエイティブの意思疎通がうまくいかんらしい。言葉の壁というより、文化の壁だな。で、泣きついてきた。お前のところの、あの『秘密兵器』を貸してくれ、と」
郷田は、ニヤリと笑った。その視線が、まっすぐに義成を射抜いている。
「涌井の奴、お前の噂を聞きつけてな。中国生まれで、日本育ちのアメリカ留学、日本語、北京語、英語がネイティブ。しかも、ビジネスの勘も、あの赤城を黙らせるほどの胆力もある。そんな都合のいい若手がいるなら、一週間でいいから上海に同行させてくれ、と。どうする?お前のプロジェクトも佳境だが、制作局に恩を売っておくのも悪くないぞ」
それは、紛れもない大抜擢だった。会社の根幹を成す巨大クライアントの、最重要プロジェクトへの参加要請。断る理由は、どこにもなかった。
「…わかりました。お受けします。光栄です」
義成は、静かに、しかし力強く頷いた。
だが、彼の心の中は、穏やかではなかった。「上海へ行く」。その言葉が、彼の心の奥底に沈めていた、複雑な感情を大きく揺り動かした。12歳の時、母・京海の事故をきっかけに、父・楡生に手を引かれて日本の土を踏んで以来、彼は一度も故郷の地へは戻っていない。彼の記憶の中にある中国は、社会主義の硬直した空気と、改革開放の熱が混じり合う、混沌とした場所のまま時を止めていた。
そして何より、今回の出張は、彼にとって特別な意味を持っていた。
数週間前、張一家の十数年にわたる戦いは、ついに終わりを告げた。日本国籍への帰化が、正式に許可されたのだ。父・楡生、母・京海、そして息子の義成。「張」という姓は法的に消滅し、彼らは「青木」という、父がかつて捨てた日本の姓を自らの手で取り戻した。
義成は、先週受け取ったばかりの、真新しい紺色の日本のパスポートを内ポケットに忍ばせていた。金色の菊の紋章が、誇らしげに輝いている。
「青木義成」。
国籍、JAPAN。もう、ビザの心配も、入国審査での詰問も、理不尽な疑いの視線に怯える必要もない。この一冊の旅券が、彼に、国際社会における絶大な信頼性と、何物にも代えがたい自由を与えてくれる。それは、彼が血の滲むような努力の果てに、ようやく手に入れた、最強の「盾」であり「翼」だった。
「張義成」としてではなく、「青木義成」として、初めて中国の土を踏む。
それは、過去との決別であり、新たな自分としての初陣を意味していた。
上海へ向かう飛行機の窓から、眼下に広がる東シナ海を眺めながら、義成は静かに目を閉じた。脳裏に、かつて愛した女性の、最後の笑顔が浮かんで消える。李殷。彼女の記憶は、彼の魂の最も深い場所に、聖域のように、しかし同時に決して癒えることのない古傷として存在している。
(見ているか、殷)
俺は、生きている。お前の分まで、この世界で、戦い抜くと誓った。
彼は、そっとパスポートに触れた。その冷たい感触が、彼を現実に引き戻す。
感傷に浸っている時間はない。これから始まるのは、ビジネスという名の戦争だ。
「青木義成」としての、最初の戦いが、今、幕を開ける。




