プロローグ 龍の寝床
"The darkest hour is just before the dawn."
(夜明け前が最も暗い)
― Thomas Fuller/トーマス・フラー
1994年・春
アスファルトを叩く雨音が、古い木造アパートの窓ガラスを濡らしていた。張義成は、雨粒が描く無数の筋を、ただぼんやりと眺めている。部屋の壁には、二枚の合格通知が虚しく貼られていた。英国ウェールズ大学、そして米国キングス・カレッジ。それは、血の滲むような努力の結晶であり、彼が「ここではないどこか」へ羽ばたくための翼のはずだった。インクの匂いも真新しい賞状が、机の上で希望の残骸のように転がっている。卒業式の日、全校生徒の前で壇上に上がり、校長から直接手渡された「努力賞」状。その紙一枚の重みが、今は皮肉なほどに軽い。
高校三年間、一日も休まなかった。父・張楡生と母・兪京海が深夜まで働き、自分を日本の高校に通わせてくれた。その恩に報いたかった。朝は三時に起き、朝刊を配り終えると、一番に教室のドアを開ける。授業中は教師の言葉を一言も聞き漏らすまいと神経を集中させ、放課後は図書館が閉まるまで自習を続けた。仮眠だけで机に向かう夜も一度や二度ではない。そうやって捻出した時間で英語を猛勉強し、高2の秋には周囲の日本人学生をごぼう抜きにして英検準一級を取得した。誰もが彼の努力を認め、その真面目さを称賛した。父と母だけは、賞賛の言葉の裏にある息子の苦労を、その寝不足で隈のできた顔を、黙って見つめていた。
学費も、生活費も、三人で必死に貯めた。父は大学の研究室に籍を置きながら配送の仕事を掛け持ち、母は博士課程の論文と格闘しながら翻訳のアルバイトをこなした。義成の新聞配達の給料も、一円たりとも無駄にはしなかった。資金力は、あった。問題ないはずだった。だが、彼らの在日身分は中国人「留学生」とその「家族滞在」。それだけだった。その事実は、どんなに努力しても、どんなに金を積み上げても、覆すことのできない原罪のように重くのしかかった。
英国大使館の冷たいガラスの向こうで、金髪の職員はパスポートと書類を機械的にめくりながら、作り物めいた笑みで言った。「ご家族の状況では、将来的に我が国へ移民する傾向が強いと判断せざるを得ません」
米国大使館でも、同じ言葉が繰り返された。まるで、どこかで申し合わせたかのような、冷酷な宣告。「中国人」という出自。両親が今もなお中国国籍であるという事実。それが、彼の未来の可能性をいとも簡単に奪い去った。努力では、決して越えられない壁。自分の存在そのものが、生まれながらにして「疑われるべきもの」なのだと突きつけられた瞬間だった。好好学生として生きてきたプライドは、ガラスのように粉々に砕け散った。
怒りが込み上げた。なぜだ。なぜ中国人だというだけで、こんな扱いを受けなければならないのか。父が、母が、あの激動の中国で何を経験し、何を想って日本に渡ってきたのか。この国の役人たちに、何がわかるというのだ。だが、その怒りは行き場をなくし、やがて内側へと向かい、自分自身を苛む刃となった。
それからの日々は、自暴自棄という言葉そのものだった。体にいくつも傷を自らつけ、若いからこそ、この怒り、屈辱、悔しさを向けるところをしらず、自分の体へ原始的な手段で怒りを爆発させ、痛みを残した。陽が落ちてから起き出し、目的もなく山手線に乗り、ただぐるぐると回り続ける。渋谷で降り、センター街の人混みに紛れては、自分と同じ年頃の若者たちの屈託のない笑い声に吐き気を催した。新宿の喧騒も、池袋の雑踏も、すべてが自分を拒絶しているように感じられた。夜明けと共に安アパートに帰り着き、コンビニの弁当を胃に流し込んで眠る。鏡に映る自分の目は淀み、光を失っていた。このまま腐っていくのか。父と母の、あの悲しみを堪える顔を思い出すたび、胸が張り裂けそうになるのに、体は鉛のように動かない。
その日、世の中は祭日も、意味もなく電車に乗り、代々木駅で降りた。雨に打たれながら歩くうちに、足は自然と一つの場所へ向かっていた。来日して間もない十二歳の頃、不安と希望を胸に、父楡生に手を引かれて通った日本語学校。漢字もろくに読めず、教室の隅で縮こまっていた自分。先生の優しい言葉、クラスメイトだった台湾人の青年との束の間の友情。記憶の断片が、雨音と共に蘇る。あの古びたビルの前で、義成は立ち尽くした。
何かに引き寄せられるように、錆びた階段を上がる。一歩一歩、過去へと遡っていくような不思議な感覚。ロビーのソファに、一人の女性がぽつんと座っていた。抱えた教科書、少し濡れた長い黒髪。その大きな瞳には、かつての自分と同じ、不安と、それでも消えない微かな希望の色が浮かんでいた。そして何より、その顔立ちに、義成は既視感を覚えた。それは、彼がテレビドラマや映画で見てきた、韓国の女優たちに共通する、凛とした、それでいてどこか儚げな美しさだった。
なぜか、目が離せなかった。彼女の孤独が、自分のことのように胸に迫る。義成は、無意識のうちに歩み寄っていた。
「あの……大丈夫ですか?」
驚いて顔を上げた彼女の瞳と、視線が絡む。その瞬間、時が止まったように感じた。
「何か、困っていますか?もしよかったら……」
言葉を続けようとしたが、彼女は警戒するように少し身を引いた。その仕草に、義成ははっと我に返る。今の自分は、髪も髭も伸び放題で、服装も薄汚れている。不審者にしか見えないだろう。
だが、彼女が抱えている教科書に書かれたハングルの文字を見て、義成は別の言葉を紡いだ。
「혹시……당신은 한국 사람입니까?(もしかして……韓国の方ですか?)」
アルバイト先の韓国料理店で覚えた、片言の韓国語だった。
その言葉を聞いた瞬間、彼女の瞳から警戒の色がすっと消え、驚きと安堵が入り混じった表情に変わった。
「네……(はい……)」
そのか細い声が、義成の心を震わせた。
「俺、ここで日本語を習っていたんです。少しだけ、韓国語も話せます。何か手伝えることがあれば」義成は流れるような英語で話しかけた。
彼女の名前は、李殷といった。ソウルから来て、まだ二日目なのだという。英語と、時折混じる韓国語で、彼女は自分の状況を話し始めた。不動産屋に紹介されたアパートの鍵が違う、電話もまだ通じない、学校は今日は旗日で休みのため、今誰にも頼れそうな人はいなかった、と。その心細そうな横顔を見ていると、義成はいてもたってもいられなくなった。中国人である自分への理不尽な怒りも、将来への絶望も、不思議と頭から消えていた。ただ、目の前のこの人を助けたい。その一心だった。
「俺が、なんとかします。信じてください」
力強く言った。それは、誰かに必要とされたいという、渇望の表れだったのかもしれない。
話しているうちに外は土砂降りになり、不動産屋も電話に出ない。義成は「とにかく、雨宿りできる場所へ」と、彼女を自分のアパートに連れて行くことも考えた。だが、あの希望のない、荒れ果てた部屋に彼女を入れることなど、到底できなかった。
「俺のことはいいから、あなたの部屋へ行きましょう。鍵のことは、大家さんに直接話してみます」
一つの傘に肩を寄せ合う。彼女の体温とシャンプーの甘い香りが、すぐそばにあった。雨に濡れたアスファルトの匂いと混じり合い、妙に生々しく義成の記憶に刻まれた。
李殷のアパートは、学校からほど近い、女子学生向けと謳われた小さな物件だった。案の定、大家に連絡を取ると、不動産屋の手違いで鍵が間違っていたことがわかった。正しい鍵を受け取り、ようやく部屋のドアが開く。がらんとした、生活の匂いがしない空間。事前に届けられたダンボール箱がいくつか置かれているだけで、まるで引っ越しの途中か、あるいは夜逃げの後のようだった。その殺風景な部屋が、彼女の孤独を何よりも雄弁に物語っていた。
「よかったら、荷解き、手伝います」
義成は言った。李殷は、申し訳なさそうに、しかし安堵の表情で小さく頷いた。
二人で黙々とダンボールを開ける。出てくるのは、数枚の衣類、韓国語で書かれた本、そして家族の写真。写真の中の彼女は、今よりもずっと屈託なく笑っていた。
「……ありがとう」
不意に、李殷がたどたどしく日本語で呟いた。
「あなたがいなかったら、どうなっていたか……」
「いいえ。俺の方こそ」
義成は本心からそう言った。「俺の方こそ、あなたに会えてよかった」
その夜、義成は自分の家に帰らなかった。李殷が「もしよかったら」と、夕食にとコンビニで買ったキムチチゲとキンパを勧めてくれた。ぎこちない食事を終え、彼女がシャワーを浴びている間、義成はただ部屋の隅で座っていた。自分の汚れた服が、この真新しい部屋を汚してしまうような気がした。
シャワーから出てきた彼女は、少し大きなスウェット姿で、化粧の落ちた素顔は驚くほど幼く見えた。
「あの、帰らないと、ご家族が心配するんじゃ……」
「大丈夫です。今日は、ここにいさせてください」
衝動的に、言葉が口をついて出た。それは彼女のためであり、何より、自分自身がこの安らぎの空間から離れたくないという、魂の叫びだった。
李殷は驚いたように目を見開いたが、やがて何かを察したように、黙って頷いた。そして、押し入れから客用の布団を出し、リビングの隅に敷いてくれた。
性的な欲望は、不思議なほど湧いてこなかった。ただ、この孤独な魂のそばにいたい。この光を守りたい。そう思った。
隣の部屋から聞こえる、彼女のかすかな寝息。それは、義成にとって、世界で最も穏やかな音楽だった。ここは、自分の新しい「寝床」なのだ。長い間彷徨っていた魂が、ようやく安らげる場所に辿り着いた。義成は、何か月ぶりかに、穏やかな眠りへと落ちていった。長い暗闇のトンネルの先に、ようやく見つけた、ささやかで、しかし確かな光に包まれて。
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「天下熙熙, 皆為利來; 天下壤壤, 皆為利往。」
(天下の熙熙たるは、皆利の為に来たり。天下の壌壌たるは、皆利の為に往く)
― 司馬遷『史記』
2008年・秋
河北省、直轄市天津の経済開発区を一望する高層マンションの最上階。フランス製の高価な香水の香りと、汗の匂いが混じり合った空気が、間接照明に照らされた寝室に澱んでいる。シルクのシーツが湿り気を帯びて肌に纏わりつくキングサイズのベッドの上で、二つの体が激しく絡み合っていた。若い男の荒い息遣いと、熟れ始めた女の甘い嬌声が、厚い防音ガラスの向こうの夜景を震わせているかのようだ。
男――張義成は、眼下の女、李霃帘の乱れた髪を掴み、その白い喉に吸い付きながら、その思考は驚くほど冷静だった。この女は、河北省経済開発区を束ねる共産党の若き女性幹部。そして、自分をこの甘美な腐敗の世界に引きずり込み、同時に大金をもたらしてくれる重要なパートナーだ。情事の熱に浮かされながらも、彼は次のカードを切るタイミングを、まるで精密機械のように計っていた。
激しい嵐が過ぎ去り、名残の痙攣が彼女の体を震わせる。静寂が訪れると、李霃帘は恍惚の余韻に浸りながら、猫のように義成の胸にすり寄ってきた。官能で潤んだ瞳が、獲物を仕留めた雌豹のように満足げに細められる。
「あなたは本当に……獣のようね。その尽きることのない若さが羨ましいわ」
彼女の、見事な彫刻のように手入れされた爪が、義成の胸の傷跡――かつて闇社会の体験でつけられたものを、愛おしげになぞる。それは、彼の危険な魅力を再確認する儀式のようだった。
義成は彼女の髪を優しく撫で、その耳元で囁いた。その声は、情事の直後とは思えないほど、ビジネスライクな響きを帯びていた。
「ディアオリェン、例の香港経由の資金、無事に処理できた。日本の『青木義成』名義のペーパーカンパニーは、いつでも動かせる」
「ええ、あなたの手際の良さにはいつも感心するわ。おかげで、この開発区の『景観整備費』も潤沢よ」
李霃帘はくすくすと笑う。それは、共犯者だけが分かち合える、黒い笑みだった。
これが、彼らの関係性だ。情欲と利益。互いの体を貪り、互いの口座を潤す。どちらが欠けても成り立たない、歪んだ共生関係。義成は、この関係をさらに次のステージへ進める時が来たと判断していた。彼はベッドから抜け出し、窓辺に立つと、眼下に広がる開発区の光の海を見下ろした。自分が操る金で動いている光の粒。それは、全能感に近い陶酔を彼にもたらした。
「まだ満足できないの?」
背後から、李霃帘がシルクのガウン一枚を羽織って近づいてくる。
「ディアオリェン。俺はもっと大きな絵が描きたい。この開発区だけじゃない。省全体のプロジェクト……いや、北京にも繋がるような仕事を」
義成の言葉に、李霃帘の動きがぴたりと止まった。彼女は体を起こし、真顔で義成を見つめる。
「……本気なの?」
「いつだって本気だ。そのためには、あんたの上司、王書記の力が必要だ。彼に会わせてほしい」
李霃帘の目に、嫉妬と警戒の色が浮かんだ。この若く野心的な男を、自分だけのものにしておきたいという独占欲。そして、彼を上層部に紹介することで、自分のコントロールが効かなくなることへの恐れ。
「焦らないで、義成。物事には順序というものがあるわ。王書記は、そう簡単に外国人に会うような方じゃない」
彼女はそう言って、再び義成の体に腕を回す。だが、義成は振り向かなかった。
「足りないんだ」
彼は静かに言った。
「あんたの体だけじゃ、もう満足できない」
その言葉は、刃のように冷たく、李霃帘のプライドを切り裂いた。彼女の顔から血の気が引く。義成はゆっくりと振り返り、彼女の顎を掴んで上を向かせた。その目は、先ほどまでの情熱が嘘のように、絶対的な支配者の目をしていた。
「跪け」
命令は、静かだったが、逆らうことを許さない響きを持っていた。
李霃帘は一瞬、屈辱に顔を歪めた。彼女は共産党の幹部だ。大勢の男たちを顎で使ってきた。だが、目の前のこの若い男が放つ、抗いがたいオーラに、彼女の体は意志に反して従った。シルクのガウンが滑り落ち、彼女はゆっくりと彼の足元に膝をついた。
「俺が欲しいものを、くれるんだろう?」
義成は彼女の髪を掴み、自分の股間へと導いた。
「あんたの口で、俺を満足させてみろ。そしたら、考えてやる」
それは、もはや懇願ではない。紛れもない、強要だった。李霃帘は一瞬ためらったが、義成の欲望がすでに熱を帯びて膨張しているのを感じると、諦めたように、そしてどこか飢えたように、その唇を開いた。
それは、奉仕という名の、新たな支配の儀式だった。義成は、彼女が自分の欲望を貪欲に受け入れる様を、冷然と見下ろしていた。彼女の喉が、彼の硬さによって支配され、喘ぐように動く。その屈辱に耐える表情の中に、奇妙な悦びの色が浮かんでいるのを、彼は見逃さなかった。この女もまた、支配されることに快感を覚える種類の人間なのだ。汚らわしいとは思わなかった。むしろ、それは倒錯した美しさを伴う、完璧な取引の形に思えた。
彼は、自らの欲望の頂点で、彼女の口内に全てを解放した。李霃帘は、むせ返りながらも、一滴もこぼすまいとそれを飲み下す。そして、潤んだ瞳で彼を見上げた。その目は、「これで満足でしょう?」と訴えかけていた。
義成は、彼女の頭を優しく撫でた。それは、忠実な犬を労う主人の仕草だった。
「よくできたな、ディアオリェン」
彼は満足げに微笑んだ。
「王書記との面会、セッティングしておけ。いいな?」
窓の外には、無数のクレーンが眠りもせず、新たなビルを天へと押し上げている。それは、中国の巨大な欲望そのものだった。そして義成は、その龍の背に乗り、さらに高く、どこまでも暗い空へと昇っていこうとしていた。女のプライドと体を踏み台にして。




