第五章 龍の紅顔 1. 狂気の時代のバーボン
“In individuals, insanity is rare; but in groups, parties, nations and epochs, it is the rule.”
(個人において狂気は稀だが、集団、党、国家、時代においては、それが通例だ)
– Friedrich Nietzsche/フリードリヒ・ニーチェ
1. 狂気の時代のバーボン
2005年、春。
中国大陸は、狂気の熱に浮かされていた。「反日」という名の、巨大な集団ヒステリー。北京、上海、広州…主要都市の日本大使館や日系企業は、怒号を上げる群衆に取り囲まれ、石や卵が投げつけられ、日の丸が燃やされた。テレビのニュースは、連日その狂騒を、まるで国民的祭典のように報じている。歴史問題という名の古い傷口がこじ開けられ、そこから流れ出すナショナリズムの毒が、国全体を酔わせていた。
しかし、ここ深圳は、その狂気から奇妙なほど隔絶されていた。
香港に隣接し、改革開放の最前線として、金と欲望だけを追い求めてきたこの若い都市では、ナショナリズムよりもプラグマティズムが優先される。反日デモに参加するよりも、日本企業と取引をして利益を上げることの方が、よほど重要だった。街は、いつものように、野心と活気に満ち溢れ、ネオンの光が湿った亜熱帯の夜を明るく照らしている。
深圳、長安ホテル。その最上階にあるメインバー「The Compass」の、窓際の席。
青木義成は、重厚なクリスタルグラスを傾け、琥珀色に輝くバーボンを静かに口に含んだ。18年熟成されたそれは、スモーキーな香りと共に、彼の喉を熱く焼きながら流れ落ちていく。彼の背後にある巨大な窓ガラスの向こうには、深圳の宝石箱をひっくり返したような夜景が無限に広がっていた。この光の海は、彼が操る金と情報によって、その輝きを増している部分も少なくない。
彼は、日本人「青木義成」として、この地にいた。
東邦広告を退社後、彼は日中の貿易とコンサルティングを手掛ける自身の会社を設立した。日本人という信頼性の高い身分と、中国人としての深い知見、そしてアメリカで培った合理的な思考。その三つを武器に、彼はこの巨大な市場で、驚異的な成功を収め始めていた。表向きは、日本の高品質なノベルティグッズを中国と日本の市場に交互卸す、クリーンな商社の社長。だが、その裏では、日中英の三カ国語を巧みに操り、共産党の地方政府と深く結びつき、外国資本を呼び込むためのダーティな裏仕事にも手を染めていた。彼は、光と闇の世界を、まるで熟練のサーファーのように、危ういバランスで乗りこなしていた。
バーカウンターの向こうにある大型スクリーンでは、北京での反日デモの様子が、音声なしで流されている。燃え盛る炎、憎悪に歪んだ顔、顔、顔。
義成は、その映像に一瞥をくれただけで、すぐに興味を失った。時代の狂気など、彼にとってはどうでもいいことだった。彼自身の内なる狂気と、虚無に比べれば、集団のヒステリーなど、まるで子供の火遊びのように、陳腐で、滑稽にさえ思えた。
彼は、再びグラスを傾けた。
氷が、からん、と澄んだ音を立てる。その音が、引き金になった。
昨夜の、狂おしくも甘美な記憶。女たちの熱い肌、濡れた吐息、絡み合う手足。その記憶が、バーボンのアルコールと共に、彼の脳髄を痺れさせていく。彼は、目を閉じ、昨夜の狂宴の渦の中へと、意識を沈めていった。
昨夜、彼はこのホテルのプレジデンシャルスイートで、三人の女と、文字通り朝まで求め合った。楊楊、無宣、そして小黎。彼女たちは、世間では「小姐」と呼ばれる、カラオケクラブのホステスだ。しかし、彼女たちと義成の関係は、金で繋がった、そんな単純なものではなかった。
彼女たちは、義成の「紅顔知己」。
直訳すれば、美人のソウルメイト。それは、恋人未満、友人以上、そして、夜を共にする、最も親密な異性の友人を指す、中国の歴史的に独特な言葉だ。彼女たちは、それぞれが、義成によって人生の窮地を救われた過去を持つ。そして、その恩義と、彼の持つ抗いがたい男性的な魅力に心酔し、自らの意思で、彼にその身を捧げている。彼女たちは、彼の心に巣食う、決して埋まることのない巨大な空洞を、自分たちの肉体と、献身的な愛で、たとえ一時でも埋めることができるのなら、と願っている。それは、報われることのない、あまりにも健気で、切ない奉仕だった。
昨夜は、特別だった。
いつもは、一人ずつ彼に請われて部屋を訪れる彼女たちが、初めて、三人同時に、彼のベッドに集ったのだ。それは、破天荒で、倒錯的で、そして神聖ですらある、四人のための儀式だった。
義成は、グラスに残ったバーボンを一気に呷った。
記憶の扉が、完全に開かれる。




