7. 旅券(パスポート)の重み
「…お客様?お客様?」
客室乗務員の声で、青木義成は、はっと我に返った。
彼の意識は、2003年、上海行きの飛行機の中へと戻ってきた。窓の外には、どこまでも広がる、青い空と白い雲海。頬に、冷たい涙の筋が伝っていることに、彼は気づいた。
彼は、手にしたばかりの、紺色の日本のパスポートを、強く、強く握りしめた。
その、わずか数十グラムの冊子が、殷との、あまりにも重い記憶のすべてを内包しているかのように、ずしりと沈むように感じられた。
彼女の死を、乗り越えたわけではない。
その記憶は、彼の魂に、一生消えることのない、深い傷として刻み込まれている。彼女の病気に気づけなかった、自分の未熟さへの後悔。それは、彼が生涯背負っていく十字架だ。
しかし、彼は生きている。
彼女の分まで、この世界で、生きなければならない。彼女が見ることのできなかった未来を、この目で見届けなければならない。
「青木義成」として、中国へ渡る。
彼は、もはや、ただの「青木義成」ではない。彼は、李殷の夫であった「張義成」の記憶を、その魂の最も深い場所に封印した「青木義成」なのだ。彼の強さ、時折見せる冷徹さ、そして、誰にも見せることのない優しさの根源には、このあまりにも大きな喪失と、純粋な愛がある。
飛行機が、ゆっくりと高度を下げ始める。眼下に、巨大な龍のように横たわる、上海の街並みが見えてきた。
彼は、涙を拭い、パスポートを胸ポケットにしまった。そして、これから始まるであろう、新たな戦いに備え、まっすぐに前を見据えた。
上海の地を踏むことは、彼にとって、単なる出張ではない。それは、過去との対峙であり、殷と共に生きられなかった未来への、償いと、そして再生のための、第一歩となる旅だった。
龍は、記憶の海から浮上し、再び、飛翔の時を迎えようとしていた。その翼には、愛する人の魂を乗せて。




