5. 最後の結婚式
会長夫妻は、絶句した。
「…何を、言っているんだ、君は」
会長の声は、驚きと、そしてかすかな怒りに震えていた。この若者は、娘の死を前にして、ハヌルグループの財産を狙っているのか。そう疑うのも、無理はなかった。
「財産も、地位も、何もいりません!」
義成は、叫んだ。
「僕はただ…彼女が、この世を去るその瞬間に、『張義成の妻』として、世界で一番幸せな女性として、見送ってあげたい。それだけなんです!彼女を、一人で逝かせたくないんです!お願いします!」
その悲痛なまでの叫び、その純粋すぎるほどの愛に、百戦錬磨の財閥会長の心も、そして母である夫人の心も、激しく揺さぶられた。彼らは、この若者が、金のために言っているのではないことを、その魂の叫びから、痛いほど理解した。夫人は、口元をハンカチで覆い、静かに泣き崩れた。
会長は、長く、深い沈黙の後、静かに言った。
「…好きにしなさい。あの子が、それを望むのなら」
義成は、殷の病室に戻り、彼女の手を握った。
「殷。結婚しよう、俺と」
殷は、弱々しく首を横に振った。
「だめよ…義成さん。あなたに、そんな重荷を、背負わせるわけには…」
「重荷なんかじゃない。俺の、生涯の誇りだ」
義成は、彼女の痩せ細った指に、自分の指を絡めた。
「君を、俺の妻にしたい。残された時間が、たとえ一日でも、一時間でもいい。君に、俺の苗字をあげたいんだ」
彼女の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、絶望の涙ではなく、この上ない幸福の涙だった。
「…うん…」
彼女は、か細い声で、しかしはっきりと、頷いた。
その二日後。
病室で、世界で最もささやかで、しかし最も美しい結婚式が、執り行われた。
参列者は、会長夫妻と、義成だけ。
神父はいない。豪華なウェディングドレスも、タキシードもない。殷は、清潔な寝間着のまま、ベッドに横たわっている。義成は、韓国に来た時の、着の身着のままのセーター姿だ。
ただ、義成が、前日に街を走り回って見つけてきた、小さな、小さなプラチナの指輪だけが、そこにあった。
彼は、殷の薬指に、そっとその指輪をはめた。彼女の指は、驚くほど細く、そして冷たかった。
彼は、彼女の手を取り、その前に跪くと、誓いの言葉を述べ始めた。それは、二人が大学時代に、共に読み解いた、シェイクスピアのソネット116番だった。
“Let me not to the marriage of true minds
Admit impediments. Love is not love
Which alters when it alteration finds,
Or bends with the remover to remove…”
(真実の心の結婚に、障害を認めるなかれ。愛とは、移ろいゆくものを見つけて移ろい、離れゆく者と共に離れ去るような、そんな愛ではない…)
彼の、低く、しかしよく通る声が、静かな病室に響き渡る。それは、どんな神父の言葉よりも、荘厳で、愛に満ちていた。
ソネットを最後まで暗唱し終えると、彼は、彼女の瞳をまっすぐに見つめた。
「李殷。あなたは、病める時も、健やかなる時も、俺が、生涯をかけて愛し、守り抜くことを、ここに誓います」
殷の瞳から、大粒の涙が、次から次へと溢れ出した。彼女は、最後の力を振り絞り、微笑んだ。
「…はい。喜んで、あなたの妻になります。張義成さん…」
その瞬間、彼女は「ハヌルグループの令嬢、李殷」ではなく、ただの「張義成の妻、李殷」になった。病状のため、二人の肉体がもう結ばれることは、永遠にない。抱きしめることさえ、彼女の虚弱な体には負担だった。だが、彼らの魂は、この世の誰よりも深く、固く、結ばれたのだ。




