4. 真実と誓い
ハヌルグループの会長室は、まるで王宮の一室のように、広大で、静寂に包まれていた。義成は、その部屋の主である李会長と、その隣に立つ、憔悴しきった表情の夫人――殷の母親の前に、なすすべもなく立っていた。
「…娘のことは、どこで」
会長の、低く、重い声が、静寂を破った。
「大学の、同級生です。そして…恋人、でした」
義成は、震える声で答えた。
会長夫妻は、顔を見合わせた。その表情には、深い悲しみと、諦めが浮かんでいた。
「君に、会わせるべきか、我々も迷った。だが…あの子が、それを望むかもしれない」
会長は、そう言うと、立ち上がった。
「ついてきなさい」
彼が連れて行かれたのは、ソウル郊外にある、ハヌルグループが経営する、最新鋭の医療施設だった。緑豊かな広大な敷地の中に立つ、ホテルのように豪華な建物。その最上階の、特別室。
そこで、義成は、李殷と再会した。
だが、それは、彼の記憶の中にいる、太陽のように明るく笑う彼女ではなかった。
豪華すぎるほど広い病室の中央に置かれたベッドの上で、彼女は、まるで人形のように、か細い体で横たわっていた。艶やかだった黒髪は抜け落ち、抗がん剤治療の副作用で、顔色は青白く、その頬は痛々しいほどにこけていた。腕には、何本もの点滴の管が繋がっている。
彼女は、かろうじて、その虚ろな瞳で、義成の姿を捉えた。
「…ぎせい…さん…?」
その声は、息をするのもやっとといった様子で、ほとんど音にならなかった。彼女は彼のことを「張」ではなく、いつも日本語の音で「義成」と呼んでいた。
「殷…!」
義成は、彼女のベッドに駆け寄った。言葉が、出てこない。変わり果てた彼女の姿に、彼は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
「どうして…ここに…」
「探しに来たんだ!当たり前だろ!何で何も言わずに、いなくなったんだよ!」
義成の目から、涙が、とめどなく溢れ出した。
その夜、彼は、会長夫妻から、すべての真実を聞かされた。
李殷は、白血病だった。韓国の大学生の時に発病し、その時にはすでに、余命いくばくもないと、宣告されていた。あらゆる治療を尽くしたが、病状は好転しなかった。
日本への留学は、そんな彼女の、たった一つの、そして「最後のわがまま」だった。
財閥の令嬢としてではなく、ただの「李殷」として、誰にも病気のことを知られず、普通の女の子として、残された時間を誰も自分のことを知らない世界で生きて見たい。その願いを、両親は、断腸の思いで受け入れたのだ。
義成との出会いは、彼女にとって、奇跡だった。彼と過ごす日々は、彼女に、病気の苦しみを忘れさせ、生きる喜びを与えてくれた。
だが、義成の渡米が決まった時、彼女は、自らの死期が近いことを悟った。そして、愛する人を、自分の死に巻き込みたくない、悲しませたくない、という思いから、彼との別れを決意したのだ。
彼女の病状は、義成がアメリカにいる間に、急速に悪化した。日本での治療が限界となり、韓国に、半ば強制的に連れ戻された。そして、彼からの連絡を、すべて断ち切ったのだ。
「…すまない」
会長は、深々と頭を下げた。「君を、深く傷つけた」
義成は、何も言えなかった。彼の心は、後悔と、自責の念で、張り裂けそうだった。
なぜ、気づいてあげられなかったのか。
電話口での、彼女の弱々しい声に。時折見せた、寂しそうな笑顔に。そのすべてが、彼女からのSOSだったのに。自分は、自分の夢に浮かれて、彼女の苦しみに、全く気づいていなかった。
なんという、未熟さ。なんという、愚かさ。
彼は、自分の無力さを、これほどまでに痛感したことはなかった。
彼は、会長夫妻に向き直り、そして、その場に崩れるように、土下座をした。
「…お願いします」
涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を、床に擦り付けた。
「僕に、殷さんとの時間をください。残された時間の、すべてを。そして…」
彼は、顔を上げた。その目は、狂気にも似た、しかし純粋な光を宿していた。
「殷さんと、結婚させてください」




