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龍の傳人―光と闇の羅針盤(青木家サーガ第3作)  作者: 光闇居士


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第四章 龍の記憶 1. 新たな旅券(パスポート)と古傷

“What is past is prologue.”

(過去は序章にすぎない)

– William Shakespeare, "The Tempest"/ウイリアム・シェイクスピア、テンペスト

1. 新たな旅券パスポートと古傷

2003年、初夏。

東京の空気は、梅雨入り前のわずかな期間だけ許される、乾いた明るさに満ちていた。東邦広告に入社して二年目。張義成ちょう ぎせいは、もはや「新人」という言葉が似合わない存在となっていた。

彼がリーダーを務めた中国事業開発部のSMSプロジェクトは、社内プレゼンの成功を皮切りに、正式な事業として力強く動き出していた。彼のチームは、まるで磁石のように優秀な人材を引き寄せ、社内でも最も注目されるセクションの一つへと変貌を遂げていた。同期の鈴木は頼れる右腕となり、古は彼のコネクションを最大限に活用して中国側との交渉ルートを切り拓き、そして高藤千芳は、プロジェクトの理念を形にするデザイナーとして、不可欠な存在となっていた。

義成は、ディレクターとして、そのすべてを冷静に、しかし情熱的に統率していた。彼の的確な判断力、多言語を駆使した交渉術、そして何よりも、プロジェクトの根幹にある人間的な理念は、年齢や役職を超えて、多くの社員からの信頼を勝ち取っていた。

その日、義成は、社内でも花形とされる制作局のベテランディレクターに呼び出された。

「張君、ちょっといいかな」

男は、国内最大手のテーマパークがクライアントである、巨大プロジェクトの責任者だった。

「実は、君の力を借りたい。今度、うちの看板キャラクターと中国の歴史物語をタイアップさせた、新しいショーを上海のパークで展開するんだがね。その現地制作物のクオリティ管理で、どうも現地スタッフとの意思疎通がうまくいかなくてね。君なら、中国の文化も、我々の求めるクリエイティブも、両方を理解できるだろう。一度、一週間ほど、私と一緒に上海へ飛んでくれないか」

それは、紛れもない大抜擢だった。会社の根幹を成す巨大クライアントの、最重要プロジェクトへの参加要請。断る理由は、どこにもなかった。

「…わかりました。光栄です」

義成は、静かに、しかし力強く頷いた。

だが、彼の心の中は、穏やかではなかった。「中国へ行く」。その言葉が、彼の心の奥底に沈めていた、複雑な感情を揺り動かした。12歳の時、母の事故をきっかけに、父に手を引かれて日本の土を踏んで以来、彼は一度も故郷の地へは戻っていない。彼の記憶の中にある中国は、社会主義の硬直した空気と、改革開放の熱が混じり合う、混沌とした場所のまま止まっていた。

これまで、彼は「中国人・張義成」として、日本で、アメリカで、そしてヨーロッパで生きてきた。その身分がもたらす不便さ、理不尽な偏見、そして越えられない壁を、彼は骨の髄まで味わってきた。英国と米国の大学から合格通知を受け取りながら、ビザが下りずに涙を飲んだ日の屈辱は、今も彼の魂に焼き付いている。

だからこそ、彼は必死に戦ってきた。この国で、自分の力で、確固たる居場所を築くために。

時を同じくして、張一家にとって、その十数年にわたる戦いが、ついに終わりを告げようとしていた。

日本国籍への帰化申請。

それは、家族三人の悲願だった。母・京海は、来日の原因となった交通事故で負った後遺症と闘いながらも、法学博士の学位を取得し、大学の研究員としてその知性を社会に還元し続けた。事故の際に国や保険会社から支払われた莫大な賠償金も、彼女は一切手を付けず、すべてを義成の将来のためにとっておいた。父・楡生は、かつて捨てたはずの「青木」という姓を自らの手で取り戻すため、そして家族を養うため、昼夜を問わず働き、この国で生きていけるだけの十分な資産を築き上げた。そして義成は、大手広告代理店で、その未来を嘱望される正社員となった。

三人の、日本社会への貢献と、安定した生活基盤。それらが認められ、帰化申請は、驚くほどスムーズに進んでいた。すでに両親は、この機会にと、中国に残る親戚や旧友たちに別れを告げるため、数十年ぶりに帰国していた。しかし、義成だけは、頑なに日本を離れようとはしなかった。

そして、2003年6月のある日。

高円寺の古いアパートに、法務局からの、一通の封書が届いた。

三人で、息を飲んで封を切る。中に入っていたのは、「許可通知書」という文字が印刷された、一枚の紙だった。

政府が官報し、三人の名前が掲載された。張楡生、兪京海、張義成という名は、この日をもって法的に消滅し、新たに「青木楡生あおき ゆうせい」「青木京海あおき きょうかい」「青木義成あおき よしなり」としての人生が始まる。

数日後、三人は、新しい戸籍謄本を手に、外務省の旅券課を訪れた。

真新しい、紺色の日本のパスポート。金色の菊の紋章が、誇らしげに輝いている。

「…やったな、義成」

父が、震える声で言った。その目には、涙が光っていた。

「ええ、本当に…長かったわね…」

母は、新しいパスポートを、何度も、何度も、愛おしそうに撫でている。

青木義成。

彼は、自分の名前が印刷されたページを、指でなぞった。国籍、JAPAN。もう、ビザの心配も、入国審査での詰問も、理不尽な疑いの視線に怯える必要もない。この一冊の旅券パスポートが、彼に、国際社会における絶大な信頼性と自由を与えてくれる。それは、彼が血の滲むような努力の果てに、ようやく手に入れた、最強の「盾」であり「翼」だった。

だが、その瞬間。

新しいパスポートの、まだ何のスタンプも押されていない真っ白なページが、彼の脳裏に、ある苦い記憶を鮮烈に呼び起こさせた。

ヨーロッパ。バックパッカーとして、一ヶ月をかけて歩いた、あの自由な旅。かつて、彼女と、いつか必ず一緒に行こうと約束した、あの場所。そして、その旅のすべてを、心の中で共に歩いてくれた、一人の女性の笑顔。

李殷リー・イン

彼女と過ごした、燃えるような愛の日々。そして、あまりにも残酷で、唐突な永遠の別れ。

閉じられていた記憶の蓋が、軋みを立てて開いていく。青木義成という新しい存在の誕生は、皮肉にも、張義成として生きた日々の、最も切なく、そして最も痛みに満ちた記憶を、彼の魂の奥底から引きずり出したのだ。

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