6. 三国志とデザインの化学反応
プロジェクトチームは始動したが、その前途は多難を極めた。
最初のミーティングから、三人の男の意見は、見事に食い違った。
「いや、張君。この戦略はリスクが高すぎるよ。中国の法律は複雑だし、いつ規制が変わるかわからない。もっと慎重に進めるべきだ」
鈴木達樹は、日本企業的なリスク管理の視点から、常にブレーキをかけた。彼の言うことは正論だが、それでは一歩も前に進めない。
「フン、だから日本人は駄目なんだ」
古天翔は、鈴木の意見を鼻で笑った。「中国市場のダイナミズムを、君たちは何もわかっていない。重要なのは、スピードと、政府高官との『関係』だ。僕の父の友人には、共産党の幹部もいる。彼らを通せば、話は早い」
古の態度は、傲慢だった。彼は、自分の持つコネクションをちらつかせ、プロジェクトの主導権を握ろうとした。
「二人とも、少し落ち着け」
義成は、ヒートアップする二人を冷静に制した。
「鈴木さんの言うリスクは、当然考慮すべきだ。だが、リスクを恐れていては、ビジネスは生まれない。古さんの言う『関係』も重要だろう。だが、我々は、特定の個人との癒着に頼るような、脆いビジネスモデルを作るべきじゃない」
義成は、ホワイトボードに、三つの円を描いた。
「我々三人は、まるで三国志のようだ。慎重な『蜀』の鈴木さん。地の利を持つ『呉』の古さん。そして、俺は…そうだな、新しい秩序を作ろうとする『魏』といったところか」
その意外な例えに、鈴木と古は、きょとんとした顔で義成を見た。
「三国が争っていても、天下は取れない。それぞれの強みを、どう活かすかだ。鈴木さんには、徹底的なリスク分析と、それを回避するための法務的なスキーム作りをお願いしたい。古さんには、その人脈を活かして、公式なルートでの情報収集と、地方政府のキーマンとの面会のアポイントを取ってほしい。そして、全体の戦略と、彼らを説得するためのロジックは、俺が組み立てる」
彼の言葉には、不思議な説得力があった。それは、彼が中国の歴史と文化を深く理解し、同時にアメリカで学んだ合理的なプロジェクトマネジメントの手法を身につけていたからだ。彼は、二人のプライドを傷つけることなく、それぞれの役割を明確に示した。
そこに、高藤千芳が加わった。
彼女は、三人の男たちの、理論と理屈ばかりの議論を、黙って聞いていた。そして、おもむろにスケッチブックを開き、ペンを走らせた。
彼女が描いたのは、一枚の絵だった。
それは、中国の田舎町で、一台の古い携帯電話を、家族全員が、宝物のように覗き込んでいる光景だった。その画面に映っているのは、都会に出稼ぎに行った息子からの、たった一言のメッセージ。「母さん、元気です」。そのメッセージを読み、母親が涙ぐみ、父親が誇らしげに微笑んでいる。
「私が…届けたいのは、これです」
千芳は、小さな、しかし芯のある声で言った。
「私たちが作るのは、ただの広告配信システムじゃない。遠く離れた人の心を繋ぐ、温かい『手紙』を届ける仕組みだと思うんです。ビジネスとか、戦略とか、難しいことはわからないけど…この気持ちを忘れなければ、きっと、中国の人たちの心にも響くものが作れるはずです」
その言葉と、その絵が、ミーティングルームの空気を一変させた。
鈴木は、リスクばかりを口にしていた自分を恥じた。古は、コネクションのことしか考えていなかった自分の視野の狭さに気づかされた。
そして義成は、彼女の感性に、心を強く打たれていた。自分が見失いかけていた、最も大切なこと。このビジネスが持つべき「魂」を、彼女が示してくれた。
「…ありがとう、高藤さん。君の言う通りだ」
義成は、心から言った。「俺たちの目標は、これだ。この絵を実現させることだ」
この瞬間、バラバラだった四つの魂は、初めて一つになった。三国志の英雄たちと、心を繋ぐ絵筆を持ったデザイナー。彼らの奇妙な化学反応が、プロジェクトを、誰も予想しなかった方向へと、力強く押し進め始めた。




